「才能」という言葉は時に人を追い詰める。だから「居場所」という言葉を使いたい。

Blue あなたとわたしの本 211

 

 

 人と外で会っていて家に帰ってくると、「あぁ、あの言い方はあの人を傷つけてしまったんじゃないだろうか」と考えてしまうことがあります。あるいは、「あの言葉じゃなかった。こっちの単語を使ったほうが彼を勇気づけることができたのに」とか、「彼女を慰めてあげることができたんじゃないか」と思うこともあります。

 そんなとき僕は、文章を書きたくなります。文章という「居場所」へ戻りたくてたまらなくなるのです。

 文章のいい点は、推敲できるところです。伝えたいことに可能なかぎり近づくよう、何度も何度も書き直せるのです。そうしても誤解を与えることや、傷つけてしまうことはあります。でも人と直接対話するよりかは、誤解を与える可能性は少ないはずです。然るべき時間をかけて、推敲したならば。文章のそういうどろっこしくも心を尽くせるところが、僕は好きなのです。

 文章を書く行為が、僕の「居場所」です。落ち着きます。ほっとするのです。体調を崩したりするとさすがにそれどころではないですが、少し具合が良くなるとまた文章のことを考えます。「そこ」に帰っています。僕の「居場所」に。

 あなたにもそういった「場所」があるのではないですか? 

 でも多くの人は、こんなことも考えます。「確かに〝これ〟をしていると自分は落ち着くようだ。とても自然な気持ちになる。だが、はたして才能はあるのだろうか? 人は認めてくれるんだろうか?」。 そういったことを思いはじめると、せっかく心地よかったあなたの「居場所」に、あなた自身がわけのわからない問題集を何冊も放り込むようなもので、たちまち居心地の悪い微妙な空間へと変わってしまうのです。

 才能があろうとなかろうと関係ありません。「居場所」はそんなことをも超えています。「私には才能があるんです」と言おうものなら、必ず誰かが「いいえ、あなたには才能なんてありません」と言い返してくるものです。だけど、「これをしているとなんだか落ち着くんです。自然な気持ちになります」と言っていれば、「いえ、あなたは落ち着きません。自然な気持ちにもなりません」とは返せないんですよ。「それはけっこうなことで」としか人は言えなくなっちゃうんですよね。「自己完結」してしまうのも悪いことばかりではありません。グラグラ揺らぎません。

 才能があるかないかではなく、「居場所」があるかないか。

「居場所」が見つかったのなら、その場所へ── 必要以上に── 「才能」とか、「認められる・認められない」だかを放り込まないようにしよう。「居場所」が見つかっただけでも素晴らしいではないですか。とても神秘的なことだと思いませんか? いつまでも飽きずに〝そのこと〟を続けられるのなら、そんな自分自身を自分で「認めて」あげればいい。その「神殿」に手を合わせればいい。何がしかの結果を出すことも大事かもしれませんが、「居場所」で過ごす充実した時間が── 日々に、安らかな納得をもたらすような気がします。

「居場所」で〝そのこと〟に打ち込んでいるあなたの姿は、透き通っていて、熱く、静かで、とても綺麗です。「才能」や「結果」、「認められる」、といった言葉さえも、軽薄に感じられるほどに。

 

 
 あなた自身も、なぜ〝それ〟に惹かれるのか、惹かれつづけるのか、〝それ〟をしているとなぜ自然な気持ちになれるのかわからない── そういった「居場所」を、その「居場所」そのものを、大切にしてほしいと思います。この世的な価値観を持ち込みすぎず、純粋に、大切にしてほしい。

 あなたの、かけがえのない、その「居場所」を。

 

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