ナツ 四日間だけの家族

Blue あなたとわたしの本 210

 

 

 ── 僕が歩いている。
 その瘦せぎすの子猫を見てなぜそう思ったのか分からない。僕が歩いていると瞬間的に思った。真昼だ。子猫と言っても、ほんのまだ生まれたてのような猫だ。元の色も知れないほどに黒ずみ、今にも倒れそうな足取りで人気もない裏通りを歩いている。蝉しぐれを全身に浴びながら。

 いやなものを見たと思った。ふだん通りもしないこんな裏道をなぜ自分は選んだんだ? 憤りにも似た感情を覚えた。こちらも歩きだ。足を早めた。すれ違うときに横目で見下ろした。もう長くは持たないなと思った。骨と皮だ。どうして生まれたてみたいなこんな子猫がたった一匹でいるんだ? もう長くはない。手遅れだ。いやなものを見た。忘れよう。

 

 どうして家につれて帰る気になったのか自分でもはっきりしない。抱きかかえても何の抵抗もしなかった。ぐったりしていた。疲れきった獣の臭いがした。

 家の床へ下ろした途端、走った。思わぬ早さで。洗面台の脇に潜り込んだ。こちらを見ている。小さな口を開け、シャーッ、とうなった。ひょっとしたら、空腹なだけかもしれない。この子は、助かるかもしれない。

 家の鍵もかけず、自転車にまたがった。キャットフードと缶の餌。スーパーを目指した。サドルから尻を浮かせて漕いだ。

 

 ドライフードは匂いを嗅いだだけで、やはり食べなかった。缶に入ったエサは一口だけ食べた。それきり、もう食べない。水も二口飲んだだけだ。水も飲まないのが気になった。ミルクも皿に入れてやったが口をつけない。やっぱり、衰弱しきっているのか。脱水症状もひどいのだろう。ならどうして水も飲まない? 素人にやれることはここまでのように思えた。ノートパソコンを開いた。近くの動物病院を探した。

 

 二十代後半くらいに見える若い女医は、生まれてまだ三週間ほどだと言った。やはり脱水症状を起こしている。点滴をしてくれた。かなり弱っているので体をしっかり洗うのは次回にします、とも。性別は、「たぶん女の子」。スタッフの女性たちが「かわいいかわいい」と口々に言ってくれるので、僕が産み落としたかのように誇らしくも思えた。柔らかいエサを出してくれた。水で溶かす粉ミルクと、針の付いていない注射器のようなもの。「3時間おきくらいに、この『シリンジ』でミルクをお願いします」と女医は言った。「一週間後にまた連れて来てください。二、三日でかなり元気になるはずです」。目の前が明るくなった。

 

 家に帰ってき、床に下ろすとまた走った。洗面台と壁の隙間に入った。左の後ろ足が少しもたつくことに気づいた。動きがおかしい。怪我をしているのか? それとも生まれつきの障害を持っているのか? 今度行ったとき、先生に聞いてみよう。

 シャーッ、と威嚇することはもうなかった。洗面台と壁に挟まれてじっとしている。この場所が落ち着くのだろう。狭いところを猫は好むものな。目には少し力が宿ってきているようにも見えた。

 不意に、写真を撮っておこうかと思った。僕は写真を観るのは好きだが、自分で撮るのはそれほど好まない。でも、撮っておこうと思った。この子が回復したら、最初来たときはこんなだったんだぜと見せてやろうと変なことを思った。「二、三日でかなり元気になるはずです。飛び跳ねるかもしれませんよ」。1枚だけでいい。1枚だけ写真を撮っておこう。

 ── 不思議な顔つきをした猫だと思った。奇妙な目つきだ。「たぶん女の子」だということだが、女の子に見えない。かといって男の子にも見えない。こんな表情をした猫をこれまで見たことがない。ココはいったいどこなんだ? 自分はなぜこんなところに存在しているんだ? そんなふうにも言いたげな面持ちだ。そして、その〝謎〟から目を背けていない顔だ。子猫にも見えなかった。千年くらい生きているような目の深さだ。── よそう。考えすぎだ。神経症的なんだ、俺は。子猫は子猫だ。この子と生きていこうと思った。どこにも属していない、誰とも関わりを持たない、この子と。そうだ、名前をつけなきゃ。── ナツ。すぐに思い浮かんだ。いまは真夏だから、ナツ。「たぶん女の子」だから、ぴったりかもしれない。ナツ。ナツ。「ナツ」と呼んでみた。反応はない。そりゃそうだ。でも君は、いまからナツだ。ナツになったんだよ。早く元気になれ。飛び跳ねてくれ。ナツは本当に、つくづく変わり者だよ。よりによって、こんな「はぐれガラス」みたいな男に拾われるなんてな。「はぐれガラス」と「はぐれネコ」か。なかなかいいコンビかも知れないぞ。早く元気になれ、ナツ。君と、生きていくよ。

 

 ショッピング・モールで猫用のトイレと砂を買ってきた。いちばん静かで落ち着けそうな場所を選び、置いてやった。ベッドは、かわいいデザインのがありすぎて決めかねた。ナツがもう少し良くなってから、じっくり選ぼうと思った。とりあえず段ボールの横を360度ぐるりと切り、嵩を低くし、なかにバスタオルを敷いてやった。水の入った皿と、柔らかいエサもそばに置く。出入りしやすいように入り口も切り取った。ナツを入れてやると、横たわった。なんて軽いんだと思った。なんて小さく、もろい体に命が宿っているんだ。病院で教わったようにうつ伏せの姿勢にまず起こし、口の横からシリンジでミルクをやった。嫌がってあまり飲まない。人肌程度に温めてもやったのだが。シリンジの角度を変える。何度も試みる。少し飲んだ。ミルクの匂いがリビングに漂った。もう眠りたいのかもしれない。「二、三日でかなりよくなるはずです」、女医の言葉を頭のなかで繰り返した。「飛び跳ねるかも知れませんよ」。いつかユーチューブで見た「ねこタワー」を買ってやろうと思った。手作りしてもいいな。絵を描いて、色も塗ってやろう。いっしょに遊ぼうな、ナツ。

 

 二日目。シリンジでミルクを飲み、病院でもらったエサも少し食べてくれるようになった。トイレに運んでいくと、おしっこをした。いとおしかった。前足で砂も掘った。ダンボールに戻した。二時間ほど家を空ける用事があり、外へ出た。帰ってくると、トイレにうんちまでしてあった。ナツは段ボールのなかで寝ている。自分で歩いてトイレまで行き、また戻ったのだ。もう覚えた。トイレの場所をもう覚えた。「天才か!」と叫びながら跳ねた。僕のほうが一足早く飛び跳ねることになった。僕の脳裏でナツは家中を走りまわり、手作りの「ねこタワー」に駆け上っていた。元気な鳴き声。ナツを抱きしめ、頬ずりしている自分自身の姿も見えた。ナツ、ナツ、ナツ。

 

 三日目の午後、首の周りを掻いてやると、指に頭を押し付けるようにしてきた。気持ちよさそうに目も細める。心を開いてきてくれているのが伝わってくる。だが、ナツの体調は予想したほどは良くなっていなかった。エサを食べない。ミルクもあまり飲まなくなった。夜中にも、何度か箱のなかを覗き込んでみたが、大半は眠っていた。眠るのはふつうのことのようにも思えた。まだ子猫なのだ。眠るのが当たり前だ。もう一度点滴を受けたほうがいいのだろうかとも考えた。一週間後に連れて来てくださいと医師は言った。ナツは眠ることで回復しようとしているのかもしれない。そうだ。回復しようとしているのだ。

 

 四日目の夕方、ナツが「あぁおん、あぁおん」と大きな声で鳴いた。今も段ボールのなかにいるはずだが、机に向かっている僕の位置からは見えない。書き物の途中だった。「ナツ、どうした?」と椅子に座ったまま身を乗り出した。「ミルク、飲めそうか? ちょっと待っててね」。1分ほどしてからパソコンを閉じ、段ボールへ向かった。

 ナツは横になっていた。ずいぶんと体が長いなと感じた。目を閉じていた。あごを上向け、口はほんの少しだけあいていた。綺麗な顔だった。綺麗な顔をして、横たわっていた。

 もうその体に命がないことを悟った。

 時間が止まった。夕暮れのまま止まった。静かだった。夏の夕暮れが、止まっていた。── 

 

 動物病院に電話した。亡くなったことを受付の女性に告げた。女医とすぐに代わってくれた。「そうですか── 」と言ったきり、医師の言葉も止まった。ありがとうございましたと伝えた。力不足で、と医師は答えた。

「 これでよかったのでしょうか?」 僕の声が言っていた。考えをまとめずに話していたので、言葉はそこで途切れた。なんとか続けた。「余計なことを、したのではないかと── 」

 医師はすぐに返した。「もし、あのまま放置していたら、あの子はあの日に亡くなっていたかもしれません。誰にも気づかれず、たった一人で、道端で死んでいたでしょう。でもあの子には、家族が出来たんです。── 名前は、もう付けられましたか?」

「ナツです」

「ナツは、家族の一員として、『ナツ』として、天国へ帰ったんです」

 鼻の奥が熱くなって、うまく返事ができなかった。

 医師は言葉をついだ。「いまは ** さんとわたし、後ろでスタッフの子たちも悲しんでいます。ナツは一人ぼっちで亡くなったのではないのです」

 そうですねと僕は言った。「ナツは、家族でした。四日間だけでしたけど、僕の、家族でした」

 

 

 翌日、区役所がナツを引き取りに来てくれることになった。火葬もしてくれるらしい。「ダンボールに入れて、ガムテープで封をし、家の前に置いておいてください」

「15メートルほどある細長い私有地の奥にある家なのですが?」

「私有地の外、公道の邪魔にならないところに置いておいてください。明日、取りに行きます。時間は分かりません。必ず、伺います」。職員の方はそう言われた。僕は礼を言って電話を切った。

 

 翌日、新しいバスタオルを用意し、白いダンボールにナツを移した。庭に咲いていた赤と白のバラで、その小さな体を飾った。道路のはしに置き、お迎えを待った。午前が過ぎ、午後になった。10分おきに外へ出て公道を見た。ダンボールはそこにあった。陽射しを浴び、真っ白く見えた。密封されたなかでナツが暑がっているのではないかと思うと、呼吸がうまくできなくなった。ダンボールのなかにいるのがナツなのか自分なのか分からなくなってくる。意識的に深呼吸を繰り返した。ひたいに汗が滲んだ。

 2時を過ぎ、3時も過ぎた。役所に電話してみようかと思った。「必ず伺います」の言葉が蘇り、思いとどまった。夕方、家の中に引っ込み、5分ほどしてからまた外へ出た。15メートル先の道路を見た。白いダンボールは、もうなかった。車が止まったような音も、気配さえもなかった。不思議なほどの静けさのなか、ナツの眠るダンボールだけが消えていた。まるで天から見えない両腕が降りてきて、ナツをそっと抱いていってくれたかのようだった。

 夕映えの空へ手を合わせた。目を閉じ、いつまでも手を合わせていた。

 

 

 

 あの日から、もうすぐ一年が経とうとしている。文章を書く僕という人間は、ある種の〝いやらしさ〟も持っていることは否定できない。言葉にする必要のない個人的な経験までをも、言葉にしようとするのだから。この止むに止まれぬ〝業〟を受け入れてもいる。自己嫌悪でもあり、自己救済でもあるこの特性とともに、僕は生きていくのだ。だがナツのことは、死後一ヶ月後や二ヶ月後ではとてもじゃないが書き出せなかった。四ヶ月近く、過呼吸の発作にも苦しんだ。反省点もあった。衰弱した子猫には、どれだけミルクを飲ませられるか、栄養を補えるかどうかで生死が分かれるのだという。もっと強引にミルクを飲ませればよかったのだ。知識が足りなかった。自分がナツを殺してしまったようにも思えた。この考え方が良くないことも分かっていた。今まで何人もの肉親を亡くしてきた。そのつど直観することがあった。何をどうしても、寿命は尽きるときには尽きるのだということを。誰のせいでもない。誰のせいでもないのだ。「お前が母親を殺したんだ!」親戚から受けた罵声が蘇ったりもした。その言葉の傷みが、こめかみの奥で発光する。脂汗を流しながら膝を抱えて横になり、いくつもの苦しみが通り過ぎるのを待った。

 

 いま、ナツのことを書こうと思う。いたずらに書くのではない。伝えたいことはある。ナツに。読んでくださる方に。僕自身に。

 命は、愛されるのだということを。美しかろうとそうでなかろうと、才能があろうとなかろうと、役に立とうと立たなかろうと、障害があろうとなかろうと、罪の意識があってもなくても、心の傷を抱えていようとも、男であろうと女であろうと、そのどちらかすらわからなかろうと。「命」であるという、それだけの尊さで。

 生命は生命として存在しているだけで、誰かに愛されるのだ。その命が失われると、涙を流させ、過呼吸の発作にも陥らせるのだ。

 ナツは最後の最後まで生きようとし、敵意も引っ込め、愛されることを受け入れてくれた。僕も他者を信じ、許し、自分自身のことも許し、そのままの自分でも愛されていいのだということを信じたいと思う。もう一度だけ。何度だって。

 
 四日間でたくさんのことに気づかせてくれたナツ。ありがとう、ナツ。

 

 

 
 
 
 2017年。夏。ナツ。「たぶん女の子」のナツ。

 あなたは夏に生まれ、その同じ夏に天へ帰っていったね。

 

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