Blue あなたとわたしの本 265 (「パーフェクト デイズ」感想)
タカシが急に仕事を辞めた翌日、サトウと名乗る女性清掃員が来るのですが、これが堂々としていて、実にカッコいいんですよね。職種うんぬんではないのです。自分が自分の仕事をどう思っているかどうか。そして大切なのは、自己イメージなんだと思う。きっとサトウは、見事な清掃作業をするのでしょう。自らのサービスに自信を持っているのでしょう。そういう人は、すてきに見えます。どんな職業であろうと。その人物が、どんな見た目であろうと。サトウと会ったあとの平山の顔はうれしそうです。サトウと平山のいる世界は、つながった・同じ世界なのかもしれません。
そして、田中 泯さん演じる踊るホームレスの男。平山は交差点で男を久しぶりに見かけます。交差点の中央で、男はいちど両手を上げ、回れ右して戻っていきます。背中には、やはり焚き木が背負われている。この男はなんなのでしょう? なんの隠喩なのでしょう?
この男は、 実家との縁を失って〝ホームレス〟となった平山の闇の部分をあらわすメタファーなのだと僕は思っています。焚き火を背負っていますから、何かのはずみで火がつき、〝怒り〟が再燃するかわからない。妹・ケイコの話によれば、父親もいまや老人ホームにおり、「いろいろもうわかんなくなってる」らしい。それを聞いた平山は、長年くすぶりつづけていた父親へのわだかまりが消え去ったのではないか。おき火のように芯の部分がまだ赤かったものが、心から取り除かれた──。よって平山の負の部分の象徴であるホームレスの男はきびすを返し、去っていった。おそらく、永遠に。
この考察が正解なのかどうかはわかりません。正解などというものはそもそもないのです。作り手側に何がしかの意図があったとしても、それが唯一の答えではない。観られた人それぞれの解釈でいいと思う。私と同じ考察は、いまのところ目にしていません。あなたはどう理解されたでしょうか。「ああなのかこうなのか」とあれこれ考えるのも、映画を鑑賞する面白さですよね。ホームレスの男が去ったあとの平山の表情は、憑き物が落ちたかのようです。
そして帰路につく道路、 反対車線は車がぎっしりと詰まっているのに、平山の走るレーンだけは一台の車もないのです。すっきりしているのです。考えすぎかもしれませんが、これも平山の心をあらわす心象風景のように僕には見えました。
3月に投稿しました「『PERFECT DAYS』を観てきた。頭から離れなくなる映画だった」で割愛した部分は、おおむねこれで書いたようです。
──あと、もう1点だけ。
平山がやけ酒をあおっていた河川敷へ、おかみの元夫・友山はなぜ追いつくことができたのか? 疑問に思われたかたは多いのではないでしょうか。平山は自転車に乗って、小料理屋の前から立ち去ったわけですからね。重病をわずらってもいる友山が、徒歩で追いつくのは不自然です。そもそもどこへ行ったのかもわからないはずですから。ご都合主義だという声があがったとしても、無理はないのかなと、僕も思います。普通の映画として観た場合、これは〝キズ〟と言ってもいいのかもしれません。
ですが、ヴェンダース監督は、こんな発言もしているのです。「『PERFECT DAYS』は、フィクションの物語を語っているのか、それともドキュメンタリーなのかわからないところがあった」と。「私たちは、どう考えてもドキュメンタリー映画として撮った」とも。
平山を主人公としたこの物語世界が、ノンフィクションだと仮に定めてみたならば、平山が河川敷によく行くことを、小料理屋のおかみが知っていてもおかしくはないとも考えられるのです。もう5年か、6年の知り合いなのですから。「ひょっとしたら平山さん、河川敷に行ったのかも」みたいな会話が元夫とのあいだでなされたのかもしれない。いやいや、でもこれはフィクションなんだから、とあなたはおっしゃるかもしれません。平山が折に触れて川べりに行くのなら──そのことをおかみも承知しているのなら──映画の中盤までに伏線として敷いておかないと、と。
そのとおりなのです。でもそんなことも思いつかないヴェンダース監督をはじめとする製作陣でもまたないでしょう。それにそんな伏線を張ってしまっては、手だれの観客には、「はいはい、のちに河川敷が重要な場所として出てくるのね」とバレてしまうことにもなりかねません。いや、そういった次元の話でもやっぱりないなぁ。この映画は、なんというか非常に、特殊な作品なのだと思います。フィクションであって、ドキュメンタリーであるような。ドキュメンタリーであって、やはりフィクションであるような。
僕は今回、じっくりと観直して、この作品がやっぱり好きだなぁ、と改めて思いました。でも、〝普通の〟映画として観た場合、「PERFECT DAYS」が傑作なのかどうかよくわからなくもなりました。──こうも感じました。監督であるヴィム・ヴェンダースも、主演である役所広司も、主要キャストも、製作陣も、誰一人として自分たちが〝何を〟創ったのか、理解していないのではないか。自分たちが何を創ったのか十全にはわかっていないだろうなと感じました。これは最上の褒め言葉でもあります。
前記事「『PERFECT DAYS』を観てきた。頭から離れなくなる映画だった」で、影踏みの場面は〝降りてきた〟シーンではないかと私は書きましたが、今回 観直して、この映画全体が、この映画自体が、〝降りてきた〟もののように感じます。だからすべての鑑賞者の胸に何かを残すのです。残すはずです。好き嫌いは当然あるでしょう。名作なのかどうかも定かではない。でも何かをあとあとまで残すはずです。〝この世のものではない〟作品というのは、そういうものなのかもしれません。同じくヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」もそうだと思います。観る前とは別の人間に変えられてしまう。
平山や、女性清掃員のサトウは、自らの〝気質〟と向き合い、かつ、そんな自分自身を肯定することができた人間なのではないか。だから他人からどう見られるかどうかは、さほど重要ではなくなったのかもしれない。自己と〝自己の特性〟が、同じメロディーを奏でているのです。とはいえ彼らとて、ゆれることはあるでしょう。ラストシーンの平山の表情の変化のように。生きているのですから。悟りきった人間などいないのですから。旋律が乱れてしまうときだって、ある。
映画「PERFECT DAYS」をじっくりと観直したいま、さまざまなことを考えている自分がいます。しかしそれらの思考は、いつになくゆるやかで、なぜかとてもやすらかで、私を苦しめないのです。
前記事以上に長い文章を最後までお読みくださり、ありがとうございました。
心より感謝いたします。
智(とも)
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あなたとお話しできる日を楽しみにしています ( ´ ▽ ` ) / 。
智(とも)