Blue あなたとわたしの本 261 (「パーフェクト デイズ」感想)
平山は神社に昼食をとりに行きます。鳥居をくぐるときに一礼する平山。境内のベンチでサンドイッチを食べるのです。
平山は、大木を見あげ、フィルムカメラで葉むらを撮影します。木の下に生えていた小さな草木を丁寧に掘り、持って帰ったりもします。
清掃するシーンがまた描写される。その後、大木に絡みつくようにして踊る・ホームレスらしき男(田中 泯)が初めて画面に映る。この不思議な男は何のメタファーなのだろうか、という話に当然なると思います。のちほど私の考察も書きます。この説は、いまのところネット上などでは見かけません。
平山は仕事を終え、まだ陽も高いうちにアパートに帰ってきます。話は少しズレますが、これでいいのではないかと個人的には思います。人は、このくらいの時間に帰宅してもいいのではないか、と。毎日、夜遅くまで働く生活のほうが不自然ですよ。あなたはどう考えられますか。
平山は玄関わきの棚に、小物をまた並べていきます。車のキー、フィルムカメラ、財布、ガラケー、と。 朝、取っていったのとは逆の順番に。ここでは「シャレード」と呼ばれる映像表現が使われています。やや病的ともとれるこういった行為を見せる・映す、ことによって、平山の几帳面さを伝えることができるのです。映画らしい技法のひとつと言えるでしょう。
しかしながらこのテクニックは、小説などの文章表現でも使えます。文芸の場合は地の文でなんでも簡単に説明できるので、「彼は病的に几帳面な男であった」と、ついやってしまいがちなのです。この文章だけでは、どういった点が〝几帳面〟なのかがまったくわかりません。我われ書き手こそ「シャレード」という技法を意識し、説明するのではなく描写できないか──行為を描写することによって〝あること〟を表現できないか──をつねに自問するべきなのでしょう。「語るな、見せろ」というやつです。
平山は、神社で取ってきた草木を小さな鉢に移します。彼のアパートにあった植木は、こうやって集められたものなのでしょう。これも「シャレード」による人物描写と言えそうです。平山の複雑な内面が察せられます。
平山は私服に着替え、自転車で銭湯に向かいます。この服装がさりげなくもカッコいいんですよね。僕は真似したくなりましたよ。
このあとの銭湯での平山の裸体を、ヴェンダースはけっこうしっかり映すんです。それは、年相応に老いた肉体なんです。人のリアル、生のリアルを描写したい意図があったのかもしれません。もっと別のカット割りで、格好良くつなぐこともできたわけですから。
平山は浅草駅の地下街で夕食をとります。店の主人らしき男に、「おかえり、おつかれさん」などと声をかけられます。平山の座ったすぐ後ろが地下街の通路で、人は行き交うし、自動改札機なんかも見える席なんです。地下鉄銀座線の改札機ですね。その位置で平山は、けっこう居心地よさそうにしているのです。劇場で観たときは、こういう場所で食事をするのも平気な人なんだな、くらいの感想でした。Blu-rayで観直すと、改札に目をやったあと、微笑んですらいるんですよね。テレビで野球を見ていた客なんかも馴れ馴れしく話しかけてくる。平山はそんな大衆酒場の常連なんです。自転車に乗ってまで通っているのです。ひとりの生活に満足していると同時に、人恋しくもあるんだろうなと、今回 思いました。多面性を帯びた、愛すべき人間・平山が、より感じられるようになった。
平山は朝と逆の順番で布団を敷き、寝落ちするまで本を読みます。そのタイトルは、ウィリアム・フォークナーの「野生の棕櫚」。これも平山という人物を描写するための小道具でしょう。文学通の人物であることがわかります。単に小説が好きなだけなら、わざわざフォークナーにまで手を出さないですよね。この作品は、『野生の棕櫚』と『オールド・マン』という二つの話が交互に語られる。そういった構造を持ちながら、二つのストーリーは最後まで交錯しないままです。今回、観直してふと思ったのですが、姪っ子のニコに平山が言う例のセリフ、「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」と、響き合っているのではないでしょうか。そのために、「野生の棕櫚」という作品が選択された──。
この小説はずいぶん昔にいちど読んだきりで(『オールド・マン』のパートのほうがずっと面白かった記憶がある)、本も手元にないのですが、また読み返してみたいと思います。「PERFECT DAYS」との関連性をもっと見いだせるかもしれない。本当によい映画や文学には、〝たくらみ〟が何層にもなって仕組まれているものですから。それを発見できた人だけの歓びとなるように、そっと。 芸術とは〝暗いおもちゃ〟です。この世界で最も豊かな、楽しい、〝暗いおもちゃ〟です。──そう思う。
平山は眠ります。平山の見ている夢らしき映像のなかに、子どもと手をつないでいるショットが出てきます。若い母親との日中のあの出来事は、平山の意識に、やはり刻まれたのでしょうか。──
朝、老女の使う竹ぼうきの音で、主人公は目を覚まします。いつものように。
平山の1日が、また始まるのです。
vol.3 につづく。
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