Blue あなたとわたしの本 264 (「パーフェクト デイズ」感想)
田中 泯さん演じる、踊るホームレスは背中に焚き木を背負っているんですよね。これがヒントだろうなと映画館でも思っていました。次回の vol.6〈完結〉で、私の考察を書きます。
平山は、いつもの神社で姪っ子のニコとお昼を食べる。平山が大木の写真をフィルムカメラで撮ったとき、ニコは、「その木は、伯父さんの友だち?」と聞きます。「そうだね。この木は友だちの木だ」と平山は答える。このセリフにも、親近感をおぼえました。
僕は、「月」が友だちなんです。夜、晴れていると、外へ出て「月」をさがしています。見つけると、ほっ、とします。うれしくなります。あれだけ大きいのに、月を見あげている人って、たいてい誰もいないんですよね。近くの小山にのぼって、月を見ることもあります。月と二人っきりになる。癒され、からだが透明になっていくのを感じます。それでいて、「明日も生きていこうか」と静かな力も湧いてくるんですよね。独りの時間を持つと、そのぶん宇宙が、すっ、と寄り添ってきてくれるように感じます。
ニコは平山に、パトリシア・ハイスミスの「11の物語」を借りていってもいいかと聞きます。「この『すっぽん』っていう話のヴィクターって男の子、わたしかもしれない」とニコは言う。「気持ち、めっちゃわかるってこと」と。
「11の物語」は僕の部屋の本棚にもありました。さっそく「すっぽん」を再読しました。ヴィクターは11歳です。両親は離婚しています。父親が家にいません。〝ヴィクターは〟という三人称で書かれているのですが、ヴィクターの思考も地の文のなかに放りこまれる、「自由間接話法」のスタイルを小説はとっています。この話法が功を奏し、胸が痛くなるほどヴィクターに感情移入してしまう。ニコもそうだったのでしょう。
ヴィクターの母親は、ヴィクター少年の頭の良さや、感受性の豊かさにまるで気づいていません。気がつかないどころか、愚鈍な子どもだとさえ思っているのです。これはつらい。つらいですよ。子どもは独り立ちすることもまだできないのですから。狭い世界に住んでいます。理解者がいないのです。逃げ場もないのです。
序文を書いたグレアム・グリーンは、「ミス・ハイスミスは、恐怖というよりもむしろ不安の詩人だ」と言っています。これは僕も同意します。が、『すっぽん』は子どもの残忍性をあつかっている、とも述べているんです。首を傾げてしまいました。ヴィクターが最後にとる行動は、もちろんあってはならないことです。しかし「子どもの残忍性」とはちがうだろうと思ってしまいます。それでは第三者の立場で裁いているだけです。追体験もしていない。ヴィクターに〝なってやって〟いない。精神的に危うい部分を持った少年ではあります。退路を断たれていますから、当然なんです。でも、残忍性、ではないよ。
子どもの繊細さや複雑さを理解できない大人が、「異常」だとか「残忍性」だとかいう薄っぺらい言葉で片付けてしまうから、ヴィクター的な少年や少女は追いこまれていくのです。出口なしの状態にまで。その息苦しい場所で、おびえ、歯ぎしりし、苦しんでいるのです。そしてときに、まちがった選択をしてしまう。
そういった子どもたちを救う可能性があるのが文学だと思う。音楽だと思います。絵画や映画だと思う。日常とは〝深度〟がちがうんです。そういった作品が、ある種の子どもたちに、なんとか息をつかせる。固まってしまった心をほぐす。独りじゃないんだなと気づかせる。 芸術が、子どもたちを守る最後のとりでになると僕は思う。 ──短篇小説「すっぽん」を読み、あなたはどう感じられましたか?
「家出するなら伯父さんのところって決めてたから」というニコのセリフがあります。これは、平山はほかの大人たちとはちがう、と本能的に感じていたということなのでしょう。「ママと伯父さんってぜんぜん似てないね」とも言います。今回の再会で、そういった認識をより強めたのでしょうか。
母親のケイコが迎えにきた夜、ニコは、「ヴィクターみたいになっちゃうかも」と平山に言います。「だめだめ、そんなこと言っちゃだめだ」と平山は答えます。「いつでも遊びにきていいから」ともささやきます。
劇場で観たときは、平山とニコが今後 会うことはないだろうなと僕は感じました。そのようなニュアンスで、「『PERFECT DAYS』を観てきた。頭から離れなくなる映画だった」も書いていたと思います。でも、いま僕は、ニコと平山がこれから先も会いつづけてほしいと祈るような気持ちでいます。平山のような大人がそばにいてやることで、ニコのような少女は生き延びていくことができるのです。ニコは「いい子だ」、 と平山がケイコに言っても、「どうだか」とケイコは返しています。じっさい、ニコの良さなど見えてはいないのだと思います。ヴィクターの母親のように。
ケイコは、パトリシア・ハイスミスなど読まないでしょう。読んでもわからないでしょう。そもそも小説など手にとらないタイプのような気がします。
文学なんてものを理解できなくとも、高級車には乗れるのです。むしろ、芸術の魔力になど魅入られないタイプの人間のほうが、この世的な成功は収めやすいのかもしれません。でも、一部の人間には、アートのほうが遥かに大切です。それらがあるからこそ、「生きてみようか」と思えるのです。「あともう少しだけ、生きてみようか」と、踏みとどまれる。──私はそうでした。
平山は本心からニコのことを、「いい子だ」と思っているはずです。でも、ヴィクターのような事態にならないように、平山のような大人がそばにいてやってほしい。
ニコは平山との別れぎわに、「伯父さん、ありがと」と言います。映画館で観たときは、そこまでグッ、とくることもなかったのですが、今回、Blu-rayで見返して、涙が込みあげました。「伯父さん、ありがと」。 これもニコの本心であり、平山と〝出逢った〟ことで救われたのです。この世界にはいろいろな世界があり、自らの気質に合った生き方を選び取っていいのだということを肌で学んだのでしょう。ニコはヴィクターのようにはけっしてならない。道を踏み外さない。踏み外さないでほしい。 目に涙がにじむのを、止められませんでした。
平山は妹のケイコのこともハグしますが、ケイコが平山のことを理解できる日は来ないかもしれません。たしかにこの世界は、ひとつに見えても無限の広がりと深さを持った、多次元的な空間なのです。
vol.6〈完結〉へ つづく
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