好きなことがあるあなたへ

Blue あなたとわたしの本 229

 

 

 先日、夜会に参加してきました。

 あるテーマの講義を茶室で聴くイベントです。演目自体に特別の興味があったわけではないのですが、ご縁があって参会したのです。 その日の経験で、思ったことを綴ります。

 

 いちばん印象に残ったのは、講師の方の情熱でした。そのテーマに対する勤勉さですね。 熱い。とにかく楽しそうに語られます。終わらないのです。予定時間をはるかにオーバーしていました。来られている人たちもやはり同好の士 といった感じで、活発に質問が飛び交います。講師は身ぶり手ぶりをまじえ、的確に答えられた。すごいなぁと思いましたよ。痛快でしたね。

  その夜の帰り道、僕はこう再認識したんです。興味のあることをどこまでも追求していいのだな、と。のめり込んで勉強していいのだと。とことん面白がっていいのだ、と。熱くなっていいんだなと。当たり前のことですが── そんなことを再確認しました。

 

 僕は京都の生まれです。子どものころ、母親が時どき言っていたのです。「あの人、◯◯ にカンカンや」。〝カンカン〟というのは「異常なほどのめり込んでいる」、今でいう「 ◯◯ オタクだ」、みたいなニュアンスだと思います。

 僕は、その言い方が好きになれませんでした。誰かが何かに〝カンカン〟になるのはいいことなのではないかと子供心に思ったのです。

〝カンカン〟という俗語が本当にあるのか今回 調べてみたのですが、はっきりとしたものは載っていなかったんですよね。

「熱が強烈である」という意味があるので、そのあたりから来ているのかなぁとも思われます。「心の晴ればれとしたさまを表す」というのもありました。もし、特定のことに熱中し、心も晴ればれとしている状態を〝カンカン〟と呼ぶのなら、それは理想的と言っていいのではないかと今でも思いますよ。羨ましい状態ですよね。

 そう、やっかみだったのだと思うのです。「あの人、◯◯ にカンカンや」と言う人たちは。自分にはそこまで打ち込めるものがない。羨ましかったのではないかと推測します。 揶揄することによって、自尊心を守ろうとする心理も働いていたかもしれませんね。

 

 今年、こういう男性にも会いました。その方は20代で、アート系の夢を持っています。だけど父親から言われていました。「30歳までは許してやる。それでもし芽が出なかったらちゃんとした会社に就職し、まともになれ」と。

「あと3年しかないんですよね」とテーブルの上に視線を落とし、力なく彼は笑ってた。彼はアルバイトを掛け持ちしています。一人暮らしをし、日々、修練に励んでいます。とても純粋で、魅力的な人です。

 ── 僕は思うのです。なぜタイムリミットを切られなければならないのだろう? と。 好きなことをやめて、どう〝まとも〟になれるんだろう? 

 芽が出る、というのも曖昧な言葉ですよ。少しでも上手くなっていたら、それは〝芽が出〟ているのです。理解が深まっていたら〝芽が出〟ているのです。「楽しいなぁ」と自然とほほ笑めるのなら〝芽が出〟ているじゃないですか。

 惹かれ続けることをやるために、一生はあるのだと個人的には思っています。何歳だからやめなければならないなんて、馬鹿げてる。

「『自由に生きよう』みたいな方向へ時代もシフトしてきてるんじゃないの?」と若い彼に尋ねてみました。本当に知りたかったのです。

「風潮としてはそうかもしれません」と彼は少し考えてから答えました。「でも個々の家庭の話となると、智(とも)さんが20代のころと、それほど変わっていないんじゃないかなぁ」

 ── そうなんですよ、 と彼は独り言めいた口調で続けた。「親父も俺のことを想って言ってくれてるわけだから、30過ぎてもやり続けられるかと訊かれれば── 俺自身、キツいっすねぇ」

 彼は多視点でもの考えられる人なんです。自分にだけベクトルが向いていない。想像力があり、人を思いやることもできる。 言うまでもなく、それは素晴らしい資質です。

 でもね、 僕は思うのです。 好きな気持ち・やりたい気持ちがあるうちは、誰になんと言われようと、やり続ければいいのではないかと。逆に気持ちがなくなったなら、やめたってちっとも恥ずかしいことじゃない。

「才能」という言葉も僕はあまり好きではないのですが、「才能」って、いくつで爆発的に開花するかわからないんです。30代、40代なんてざらだし、60代、70代だってちっともおかしくはない。

 やりたい・やれる・好きだ、という気持ちがあるうちは、日々〝芽が出〟ているんです。〝芽が出〟続けてるの。やり続ければいいじゃないですか。愛情から言ってくれてるんだとしても(それが STOP! であれ GO! であれ)、一生の責任までは誰も取ってくれないんだから。自分に誠実になるしかないよね。自分の人生だもん。

 興味の尽きないことを、どこまでも追求していいと思う。世間体なんて気にしない。「自他を思いやる」、ルールはこれだけで充分。それで人の道を外れることはない。夢中になっていいんです。のめり込んでいいんです。身体を大切にし、知性・感性、技術を磨き続けよう。そして自分と「誰か」を楽しませようよ。〝カンカン〟になれるものを見つけ、一生〝カンカン〟であり続けられたら── 最高じゃないですか。

 

 先日 ある夜会に参加して、講師の方や、同好の皆さまと接し、あらためてそんなことを思いました。パワーをもらいましたよ。 僕ももっともっと打ち込まなきゃなって、思った。
「結果を出す」、「認められる」、そんなことだけが大事なんじゃなくて、好きなことに没頭する、その瞬間・瞬間そのものが、 喜びの ど真ん中じゃねえか、って。

 


 母親が亡くなって、来年の春で25年になります。好きなことを見つけ、とことん追求してほしかったなと思いますね。もっともっと、生きている喜びを味わってほしかった。幸せを感じてほしかったです。生まれてきてよかったと、感じてほしかったですね。
 愛する人たちに願うことって、きっとそれだけなんじゃないかなぁ。

 

 
 僕の感じ方が「絶対に正しい」とは思っていません。ただの、一つの考え方です。

 
 好きなことがあるあなたに、一個人、として贈りたい想いは、

「気持ちがあるうちは、のめり込んでやろうよ」ということです。やっていいんだ、と。
 その大変ささえも面白がり、没頭しよう、と。 素直であろう、喜びを感じよう、
 好きなことに、好きなことに、大好きなそのことに
 一生、〝カンカン〟でいようぜ、 ということ。 それだけです。

 

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

 いろんなことを感じさせてくれる、ほんっとステキなイベントだったのさ!

 

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