初めての駅で降りる

エッセイ Blue 8

 

 ローカル電車に小一時間もゆられ、降りたことのない駅で下車するのが好きだ。
 小さなロータリーを抜け、ひなびた商店街を歩く。鉄柱にスピーカーが付けられていて、そこからラジオの音声が流れていたりもする。「日中の最高気温は31度です」
 車の通らない国道をわたり、さらに郊外へと歩く。30分、さらにもう30分。いつか見たことのあるような踏み切りを越える。ひかりを照り返す線路。夏草の匂い。水分補給をしながら歩きつづける。山がひろがってくる。ヘルメットを目深にかぶった中学生らしき女の子、自転車数台とすれちがう。薄く砂けむりが立つ。
 川のそばに、喫茶店があった。
 大きな木に守られるように建っていて、壁のほとんどが窓という造りだ。扉を引いた。カラン、という音。エアコンは効いているが、終わり近い夏の陽射しも店内いっぱいに射しこんでいる。どこかしら懐かしさをおぼえる。マスターらしい中年の男性はじっと下を見て作業に集中している。こちらへ視線を向けるでもなかった。──悪くない。
 店内は、まっすぐに行くと突き当たり、左へ折れている。左へ曲がって奥まで進む。カウンター席の右すみに落ち着く。目のまえも大きな窓だ。体を前傾させて外へ目をやった。木々の向こうに、陽光に白く照り映える川が見える。ウェイトレスにアイスコーヒーをたのんだ。
 マスターの立つオープンキッチンからは、この場所は死角になっている。少し離れた斜め後ろのテーブル席に中年の男性客が一人いたが、資料のようなものを机いっぱいに広げて書き物をしている。没頭している。 悪くない。心置きなく、こちらもくつろげそうだった。

 初めての土地で、初めての喫茶店に身を置くと、遠い昔のことを思い出す。すっかり忘れていたようなことまで、ありありとよみがえってきたりする。
 この日は、ぬいぐるみ劇団の営業をしていたころのことを思い出した。そのころつけていた日記帳がひょっこりと出てき、前日の夜、しばらく読んでいたのもあったのだろう。遥か昔だ。30年前。僕がまだ20歳のころだ。22歳までその仕事をつづけた。会社は東京にあり、日本中どこへでも一人で行かされた。公演の何ヶ月かまえに現地入りし、幼稚園や小学校にチケットを売り歩くのだ。有名な劇団だったし、学校との信頼関係も築けていたから、それほど難しい仕事ではなかった。ホテル住まいをし、車を運転して毎日学校をまわる。大判の地図帳をひらきながら。カーナビなどはもちろんなかった。後部座席に大型のラジカセを転がし、BOØWYに尾崎豊、佐野元春なんかをよくかけた。窓をあけ、右肘をのせた。左手でハンドルを握った。その土地の匂いのする風が入ってきて前髪をゆらした。
 夕方には仕事を終え、夜は街に出た。一人で食事をとった。本屋をめぐったり、映画館で名画を観たりもした。初めての街の初めての映画館。 興味を引かれる作品が掛かっていなくとも、ふしぎと面白く鑑賞できた。
 それでもその仕事がつづく人はあまりいなかった。辞めていくとき、みな一様にこう口にするという。「孤独に耐えられません」。 孤独に耐えられない? 自分はいつも、うまく理解することができなかった。
 どうしても場所のわからなかった幼稚園を、小学2年生の女の子が小高い山の上まで案内してくれたこともあった。夏だった。その女の子は山道の途中から、手をつないでくれた。「わたしより妹のほうがかわいいの」、その子は、なぜだか何度もそう言った。蟬しぐれのなか、二人で汗をかきながら登った山中の道を、いまでもなんとなく憶えている。その子のしめった手のひらの感触も。視界がひらけ──地形の関係で少し見下ろす位置に──幼稚園の赤い屋根が見えたところなんかも。そのときの女の子の得意げな表情も。「あったね」と僕も言った。二人で顔を見合わせ、笑った。真っ白い木洩れ陽が辺りに降りそそでいた。少女はあのとき、どうして自分を案内する気になり、手までつないでくれたのだろう。
 劇団の営業の仕事を、2年間けっこう楽しくやった。その当時の僕は、2年やったら仕事を変えると決めていた。就職などしなくとも、フリーターで楽に生活していける時代だった。働き口は溢れるほどあった。ずっとこんな時代がつづくような気がしていた。つまらない大人にはなりたくないと思っていたし、ならない自信のようなものもあった。

 
 ローカル電車に小一時間もゆられ、初めての土地の喫茶店に身を置いていると、遥か昔のことを思い出す。あのころの青年が見て、いまの自分がどう見えるのかはわからない。ずいぶんと変わってしまったような気もするし、まるで変わっていないようにも思う。
 夕暮れが迫り、初めて降りた駅の、初めての喫茶店を出る。もう二度と訪れることはないであろう喫茶店。店のまえの砂利道で立ち止まり、夕映えの空を見あげる。半ばシルエットとなった鳥たちが遠くを渡っていく。そんなとき──なぜだかいつも決まって──心が少しだけ軽く、透きとおってしまっているのに気づく。
 
 20歳のときの日記帳に、君はこんな生意気なことを書いているね。その日はその一行だけだ。何か変わったことがあったのかもしれないし、とくに何もなかったのかもしれない。誰に言っているのかもよくわからない。ただ僕は、それを読んでいて笑ったよ。──やっぱり、大して進歩していないのかもしれない。

 

  
 自分にとっての楽しみを楽しむこと。それ以外、ここで何をすればいいんだい?

 


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