「PERFECT DAYS」の Blu-ray が出たからじっくりと観直してみた。vol.1

Blue あなたとわたしの本 260 (「パーフェクト デイズ」感想)

 

 

「PERFECT DAYS」の Blu-ray を購入してじっくり観直してみました。

最初のショットは夜明けの東京です。ラストのカットも東京の夜明け。つまり、ルーティンとしての平山の生活は変わっていないわけです。それが示されている。でも、ささやかではあるけれど、その数日間にいろいろなことがあった。平山の〝影〟は、出会った人物たちの〝影〟と重なり、より深まった。ゆえに最終場面の、あの泣き笑いにも似た表情となったのでしょう。

オープニングから順番に観ていきます。

朝、近隣の老女の使う竹ぼうきの音──、60代であろう男が目を覚まし、布団をたたむシーンから物語は始まります。確信に満ちたような男の動作に惹きこまれます。部屋のなかにある植木に、霧吹きで水をやるシーンがつづく。葉を守るようにかざされた左手。水をやり終えたあと、草木を愛でる純朴な瞳、表情。この男・平山の持つ雰囲気に、早くも言い知れぬ好感をいだきます。

きわめつきは、扉を開けて空を見あげたときの微笑ですね。これでこの初老の男に魅了されてしまうのです。

僕は思うのですが、こんな表情で朝を迎えられたら、その人はもう「成功者」なのではないでしょうか。どのような職業についていようと、です。ワクワクした気持ちで布団から出、上機嫌で家の扉をあけられる人こそ成功者だと思う。幸福者です。心から、そう思いますね。

平山は家のドアを開ける前に──きちんと並べられた──ガラケー、財布、フィルムカメラ、車のキー、と順番に取っていきます。次の腕時計、にも一瞬手をのばすのですが、やめます。これは明らかに伏線ですね。劇場でも察しましたが、伏線でした。デリケートな、ほのめかし。作り手のこういったセンスもいいですね。あとでまた詳述します。

平山は、アパート前にある自動販売機で缶コーヒーを買う。それはカフェオレなんです。BOSSのカフェオレ。あれってかなり甘いですよね。これは平山の幼児性というか、子どもの心を表す小道具なんじゃないかと思いました。そして、子どもの心・純粋さを持っているがゆえに、社会のシステムに違和感をおぼえ、馴染めなかったのではないか。溶けこめなかった。

知人から聞いたのですが──この映画を観た何割かの人は──平山は元いたであろう裕福な世界にいずれ戻っていくのではないか、と考えるそうです。どのように感じても正解・不正解はもちろんないのですが、僕はそうは思わない。平山はこの生活を自ら選択し、喜びすら感じている。いまの生活のほうが平山にとっては、ずっと〝豊か〟なのです。

──が、

上記の考えは Blu-ray で見返したいまも変わりません。変わらないのですが、映画は──ヴィム・ヴェンダース監督は──もう少し多面的に平山を描写していました。のちほどそのことにも触れます。

つづけて映画を観ましょう。

平山は車のなかでカセットテープを聞きます。流れる曲は、ザ・アニマルズが歌う「朝日のあたる家」。この歌詞の内容もね、言うなればこれは自らの半生を〝懺悔する〟歌でしょ? ヴェンダース監督は1曲目にこの曲を持ってきてるんですよね。もちろん平山の内面を暗示させるものとして。──繊細な仕掛けですよ、これも。繊細で、複雑。 今回 見返し、劇場では思い至らなかった工夫がたくさんありました。

「PERFECT DAYS」を映画館で観たあと、ロードムービー3部作と呼ばれる「都会のアリス」「まわり道」「さすらい」もBlu-rayを購入して観ました。「パリ、テキサス」も観ました。平山が仕事場である渋谷区のトイレに向かう道中も、短い〝ロードムービー〟なんですよね。ヴェンダース・タッチをここにも感じ、家で「PERFECT DAYS」を観ながらニヤニヤしましたよ。

平山はトイレに到着し、丁寧に清掃作業をします。それが描写される。ここでの動作も小気味いいんですよね。観ていて飽きません。

若い男がトイレを使うために入ってき、平山はいったん外へ出る。上を見る平山の顔。トイレの壁には木漏れ日が映っている。そちらに目をやり、微笑む平山。ついでまた上方を見る平山の顔が映り、空を背景にした大きな木が次に映される。つづいて微笑む平山の顔に戻る──。これらのリバースショットによって、平山の見ているものが樹木だとわかる。「ルック・アット」と呼ばれる映画技法です。平山は日の光や、陽光を通す木々──木漏れ日、が好きなのだなと観客は知る。 劇場で観たとき、僕はこの男に強い親近感をおぼえました。いつの間にか、自分が平山になっていくのを感じた。

若い同僚・タカシが登場する。タカシはペラペラとよくしゃべるのですが、平山は無言です。愛想よくはしません。かといって無視するわけでもないんですよね。この映画の平山にうらやましさおぼえた人が大勢いたようですが、こういった部分なのではないかと思う。つまり、ひとりで黙々とやれる仕事をしているということ。同僚に愛想よくする必要も特にはないこと。「こういう仕事もあるんだよなぁ」、 ある種の人たちは思ったのでしょう。人間関係にこそ、我われは日々悩まされているわけですから。

映画「PERFECT DAYS」のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」です。この「生きていけたなら」にはでも、それができないのだ」が込められているのかもしれません。なぜできないのか。うらやましさを感じた多くの人たちは、なぜ平山のような生き方ができないのでしょう? もちろん世間体が気になるからです。自分自身の気質よりも他者にどう思われるかを重視するからです。──だから私たちは、日々苦しむのかもしれません。

平山に話を戻しましょう。

ビジネスの世界に身を置いていると、黒いものを白だと言わなければならない局面も出てきます。平山という人はそういったことがとことんいやだったのではないでしょうか。「そういうものさ」とどうしても割り切れなかったのではないか。その徹底した清掃作業を見ていてそんなふうにも思いました。少なくともトイレという職場では、誠実に仕事に励めるわけです。人から評価されようがされなかろうが、自分で自分の仕事ぶりを認めることはできるわけです。自己嫌悪に悩まされることもない。平山にとって、それが大切だったのではないか。

何かをきれいにするという行為に没頭している、いま・いま・いま、という瞬間には、一切の悩みからのがれられるという利点もあるのでしょう。思考から解放される。けっきょくのところ人間の幸福とは、心の平安のことではないのか──、そんなふうに思うときが、あります。

映画は進行し、平山は、トイレの個室に閉じこもっていた小さな男の子を見つけます。子どもは泣いています。平山は手をつなぎ、いっしょに母親を探します。若い母親が駆けよってくる。「ずっと探してたんだよ、どこ行ってたの」。平山と男の子が手をつないでいるのがわかるショット。母親はあわてて除菌シートで子どもの手をぬぐいます。それを見る平山の顔へカメラはわずかにズームインする。母親の行為の意味するところを、平山が理解していることを示すためのズームインです。若い母親は平山に礼も言わず、ろくに目を合わせることもなく去っていきます。つなぎの作業着を着た平山ではなく、これが高級スーツを着た男性だったらこの母親は同じ態度をとったのでしょうか。若い母親には、人の内面の深さを推しはかれる器量などなかったのです。その人のしている職種や、着ているもので人品を判断することに疑問をいだかない、浅薄な人物だったのでしょう。そしてそれは私を含めた、大半の人間の実像なのかもしれません。

つづくシーンで、ハンドルをにぎる平山の横顔が映ります。その目つきが、やや鋭くなっているんですよね。平山の視線が少し動き、荷台にベビーシートのついた自転車に乗った若い女のショットがくる。そしてまた映像がリバースし、目だけで女を追っている平山の顔が映る。これは明らかにヴェンダースがそう演出したわけです。フィルムをつないでいる。先ほどの若い母親(自転車の女性と同一人物ではない)との出来事で平山が不快な気持ちになっていることを示すために、です。劇場では見逃していました。平山は、何があろうと感情も乱さない聖人ではないことを、ヴェンダースはここで描写している。

「そうかぁ」と今回 観直して思いましたよ。気づかなかった演出がほかにもたくさんあった。劇場では、もう少し悟りに近い人物として平山のことを僕は見ていたかもしれません。だからといって、あらためて映画を鑑賞し、平山の魅力が軽減したというわけではありません。やはりとても魅力的に映ります。ヴェンダース監督の細やかな采配によって、多面的な、より人間味を増した、平山が画面のなかに、いた。

トイレを清掃するシーンがこのあとも短く差しこまれ、平山は神社に昼食をとりに行きます。鳥居をくぐるときに一礼する平山。境内のベンチでサンドイッチを食べるのです。

 

 

 vol.2  として、近日中につづきを投稿します。「読者になる」登録をし、お待ちいただけましたら励みとなります。またご来訪ください。

 

 

 

 

 

 劇場で観たときの感想はこちら。

 

 








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