エッセイ Blue 3
その外国人の男性はといえば、年のころ30前後、ハンサムな顔立ちで、無精髭を生やしていた。髪は肩まであった。巨大なバックパックがテーブルの上に置かれている。色の落ちたジーンズにサイケデリックなシャツという── まぁ、70年代前半のヒッピーを彷彿させるような出で立ちなのだ。
やがてその男は、僕の座っている椅子の前足を指さした。そのあと、両方の肘を横へ張り、自らの座っている椅子の前足を浮かせながら、背もたれにもたれ掛かるブラ〜リ、ブラ〜リとした動作を二度三度と繰り返すのだ。
つまり、
「よく考えたな。たしかにこの椅子は背もたれが直角すぎる。いや、少し前傾すらしているかのようだぜ。ペットボトルのキャップを噛ませるたぁ、よく考えたもんだ。それでちったぁ楽になっただろう?」
と言っているわけだ。
僕は、「こんな微妙なことに気づくなよ」と頭をかかえそうになったが、日本の良い印象をもって(アメリカだかどこだか知らんけど)本国へ帰ってもらいたいという思いもあったので、フレンドリーな笑みを浮かべ、じゃっかん肩まですぼめてみせながら、
「あぁ、すっかりラクになったぜ」
というジェスチャーを返した。
髭面のヒッピーは、トムクルーズばりに笑みを大きくし、
「アッ、アッ、アッ、アッ」とまた妙な声を出して笑った。手まで叩いている。
僕は、「まぁ、喜んでくれてよかった、これで日本人のフレンドリーな印象とともに国へ帰ってくれることだろう」と胸をなでおろし、また文庫本に目を落とした。
2分も経っていなかったと思う。
「アッ、アッ、アッ、アッ」
と、また同じ笑い声が聞こえてくるのだ。
なんやねん、こんどは、と思いながら、恐る恐る首を回すと、
ペットボトルのキャップを噛ませた僕の椅子の前足を指さしながら、やはりヒッピーが笑っている。両肘を横へ張り、自らが座った椅子の前足を浮かせ、背もたれにもたれ掛かるブラ〜リ、ブラ〜リとした動作を二度三度と繰り返す。
「その話、もう終わったんちゃうん ⁉」
度肝を抜かれた。だけど、この国の良い思い出とともに祖国へ帰ってもらいたいという僕の思いも並々ならぬものがあり、
「あぁ、すっかりラクチンだぜ」
という笑みを返した。両の手のひらを上に向け、肩をすぼめるようなジェスチャーまで付けた。そんな仕草をしたのはもちろん生まれて初めてだ。
髭面のヒッピーはまたトムクルーズばりのビッグスマイルを浮かべ、
「アッ、アッ、アッ、アッ」と笑いながら手を叩いた。
けっきょく──
このやりとりが もう2回 あったのだ。
さすがに僕の愛国心も半ば折れてしまい、永遠にこのやりとりに付き合わされてはたまらないと思い、
「おっと、もうこんな時間か。約束の場所へ向かわなければ── 」
みたいな感じで(約束も、向かうべき場所もなかったのだが)、退散するタイミングを計っていた。
が、ほどなくし、
ガタン、と隣のテーブルで椅子を引く音がした。
「あぁ、ヒッピーも帰るんだな」とホッとした。もしまたビッグスマイルを向けてくるか(まぁ、ハグまではないだろうが)、握手でも求めてきたら、「僕も楽しかったよ」的な握手をガッチリと返し、この国の好印象の総仕上げをする心積もりを瞬時に固め、笑みを浮かべたその顔をヒッピーの方に振り向けた、時には、
ガーッ! と開いた自動ドアの遥かその先に、ヒッピーの巨大なバックパックがもう遠ざかっていた。
「早っー!!」みたいな。
「別れぎわは愛想ないのねー!!」みたいな。
「なんだかちょっと傷ついてるんですけどー!!」みたいな。
まぁ───
それだけの話なんですけどね。
前編、後編に分けるほどのもんでもないんですけどね。
もう、3年ほど前のエピソードです。だけど、その時のことが、妙に鮮明に残っています。
記憶って、変なものですよね。
あの外国人の男性は、いまでも巨大なバックパックを背負い、世界のどこかを旅しているのでしょうか? 「アッ、アッ、アッ、アッ」という妙な笑い声を上げながら。トムクルーズのような素敵な笑顔を持って── 。
だったらいいなと思います。 うん、なんとなく、ね。