「いま・ここ」を楽しもう、とすることの意外な落とし穴とその回避法

Blue あなたとわたしの本 251

 

 
 人生とは「いま・ここ」の連続であるということを理解している人は多い。人生には常に「いま・ここ」しか存在しない、と。 ゆえに、「いま・ここ」を有意義に過ごそう、「いま・ここ」を楽しもう、と人は気持ちを向けるし、僕自身そういった「Blue〜」をずいぶんと書いてきたような気がします。

 いまを生きよう、

 いまを楽しもう、と。

 そのこと自体はまちがっていないと思う。

 ただ、あなたやわたしのように、ある種 まじめすぎるというか、言語が好きで、かつダイレクトに受け止めてしまうタイプの人は、

 いまを有意義に過ごそう、

 いまを楽しもう、

 と意識しすぎると、その言葉自体が強迫観念となり、呪縛されてしまう危険性があることに、このところ気づきました。 それが今回 言う、「落とし穴」。

 言葉とはなんでしょう。 言葉はとても不完全なものです。

 いまを有意義に過ごす。

 いまを楽しむ。

 ──有意義? 

 それってつまりはどういうことですか。「意味・価値のあること」、辞書にはそう載っています。具体的にどういうことなのかわかりません。

 ──楽しむ?

 こちらはもっとわかりにくい。いったいどういう気持ちを指しているのでしょう。「心が満ち足りること」と辞書にはあります。なるほど。つまり「いまを楽しもう」とは、「いまという瞬間を満ち足りた心で過ごそう」ということなのでしょう。でもそれって、実はとても難しいことだと思いませんか。その難しさに気づかないまま、僕たちは、「そうだ、いまという瞬間・瞬間を満ち足りた心で過ごすぞ」と意気込んでしまうのです。とくに僕たちは言葉が好きだから。言葉がすべてを言い表してくれると錯覚しながら。「いま を楽しむぞ!」と、気負う。

 言語は──ましてや単語は──あまりにも不完全です。記号的なものです。その単純さを忘れ、多面的な僕たちの心・感情を、丸ごと表現し切れるんだと、思ってしまっているのですね、無意識のうちに。 「楽しい」、にしても実際はとても複雑な感情なのに。

 ここで身近な例を挙げましょう。あなたやわたしとよく似たタイプの人に登場してもらいます。

 彼・彼女は、久しぶりの休日を迎えます。待ちに待った休日です。ずっと読みたかった新刊本をカバンに入れ、お気に入りのカフェに出かけます。この店での数時間を有意義に過ごそうと考えています。この時間をめいいっぱい楽しむぞ、と。学校や職場、家庭のこともひとたび忘れ、「いま・ここ」を楽しむのだ、と。 一人で過ごすことも苦にならない・内面の豊かな人なのです。

 でも、思っていたほど楽しめません。楽しんでいない気がしてくる。どうしてだろう? もっと楽しまないと。あれほど待ち焦がれていた休日じゃないか。もっとこの時間を楽しまないともったいない。「いま・ここ」を楽しむんだ!

 しかし、彼・彼女が期待していたほどの充実感はけっきょく得られず、お気に入りのカフェをあとにしたのです。

 どうしてでしょう。どうしてこんなことが起こったのでしょう。これに近い経験が、あなたやわたしにもあったのではないでしょうか。なぜ心待ちにしていたその時間を、思ったほど楽しめなかったのでしょう?

 ──僕は思うのです。それは、「有意義に過ごすぞ」「楽しむぞ」を先に強く持ちすぎたからではないかと。「楽しむ」という定義すらも明確になっていないままに。「楽しもう!」という言葉のクサリに縛られてしまったのです。その記号が、強迫観念にすらなってしまったのでしょう。そうなっては、「楽しい」という心理状態になど至るはずがありません。

 ではどうすればよかったのでしょう。回避法はあったのでしょうか?

 それは、「充実した時間を過ごそう」や、「楽しもう!」を先に思わないことです。そう〝思わない〟 こと。 つまり、「自分は『いま・ここ』をめいいっぱい楽しむんだ」、これも〝思考〟だったのです。 あるがままの「いま・ここ」には居ません。「『いま・ここ』をめいいっぱい楽しむんだ」という思考のなかに居ます。人生とは「いま・ここ」のことである、というその本質的な事実だけを認識しておけばよかったのです。ただ、それだけで。「いま・ここ」、に安住してさえいれば。

 彼・彼女の「人生」は、カフェの席についている「いま・ここ」の連続以外は存在しなかった。彼・彼女の人生は ほかにどこにもありません。「いま・ここ」のみが実体を持った「人生」です。過去も未来も「人生」ではなく頭のなかだけに思い浮かべられる「思考」です。カフェでの、いま・いま・いま、という、瞬間・瞬間・瞬間、だけが、彼・彼女の「人生」。 それを忘れてしまい、未来、を最も大切な到達すべき人生、だと定めてしまうと、たったひとつの実在である「いま・ここ」の価値がいちじるしく低下してしまいます。「楽しい数時間をわたしは過ごすんだ」、これも厳密に言えば未来を見ています。目的に生きています。「いま・ここ」が到達すべき地点への手段となっています。彼・彼女は、「人生」に腰を据えていない人、になってしまいます。「思考」のなかを漂っている人、になってしまいます。そしてこれこそが、おおかたの不安やあせり、理由のよくわからないいらだちの原泉となっているように思われます。「いま・ここ」に、居ない、ということ。「思考のなか」に、居る、ということ。「いま・ここ」のみが、唯一の「実在する人生」だというのに。──

 だから、──恐ろしくも光栄なことに──あなたの「人生」は、僕の文章を読まれているこの瞬間・瞬間、ということになります。あなたの「人生」は、僕の書いた文章を読んでいる この一瞬・一瞬です。それ以外、あなたの「人生」は、いま・いま・いま、どこにもありません。そうではないですか。 でもそれは、あながち悲観されることではないかもしれません。なぜなら、もしあなたの現状が、にっちもさっちもいかないほどに大変極まりないものであれば、どこの誰が書いたとも知れないブログなど、呑気に読まれているわけがないからです。どうしようもないほどの肉体的苦痛にのたうち回っていらっしゃるわけでもないでしょう。そんな体調では、文章を読んでなど、やはりいられるわけがないですから。となると、
 とくに面白くもおかしくもないと思っていたこの「いま・いま・いま」が──あなたの「人生」が──ありがたく、いとおしくなってはきませんか。僕たちは意外と、いえ、ものすごく、たいていは恵まれた「いま・ここ」を過ごしているのです。「いま・ここ=人生」に在るのです。それに気づかないでいるだけです。頭のなかの声が、不平不満を始終しゃべりつづけていますから。あるいは起こってもいない心配事ばかりを考えていますから。あたりまえにある平安を、絶えまない思考の騒音が、掻き消している。

 常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」です。この本質的な事実を発見すると、ありがたさと、感謝と、なんとも言えない安らぎが、自動的に込み上げてくることにお気づきになることでしょう。

 先ほどのカフェの例に話を戻します。つまり、この場合でしたら、カフェの椅子に座っている「いま・ここ」のみが、自らの「人生」だと受け入れればよかったのです。それを認識するだけでよかったのです。「こういうふうに過ごすぞ」という目的を持たなければいいのです。「人生」に、しっかりと、ただ在ればよかったのです。そうすれば感謝と安らぎに満ちた微笑が、自然と唇に浮かんできたことでしょう (ちなみに、1,000円前後も〝お茶代〟として支払えるのは、世界的にみればごく一部の人たちだけです)。

 あとはその恵まれた平安の中で──「有意義」も「楽しむ」も忘れて──好きな飲み物を味わい、大好きな本のページをめくればいいのです。いま、いま、いま、と。そこには「いま・ここ」=「人生」の手触りがあります。香りがあります。色彩があります。五感が研ぎ澄まされ、「いま・ここ=人生」のリアリティがよみがえってきます。

 そして カフェでの時間という「人生」も過ぎ、自宅の食卓についている「人生」、あるいは眠りにつこうとベッドで仰向けになっている「人生」になったとき、カフェにいた「人生」を 彼・彼女は思い出します。そして、「あぁ、楽しかったなぁ」とそこではじめてなるのではないでしょうか。「有意義な時間だったなぁ」と。それらは先に目指すものではなく──目的にするのではなく──のちの「いま・ここ=人生」でしみじみと感じるものなのです。思わず手を合わせたくなるような、感謝の思いとともに。

 少しわかりにくい「Blue〜251」だったかも知れませんが、まとめてみます。

 

   

   まとめ


○  言葉は不完全なものであり、記号的なもの。ゆえに「有意義に過ごす」や「楽しむ」を先に目指してしまうと、あせりや不安にとらわれやすい。「楽しい」という精神状態にも至れず、失意のうちに終わってしまうことが多い。

 

○ 人生とは「いま・ここ」のことであり、常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」。「人生」はほかにはどこにも存在しないという本質的な事実を認識しておく。そしてその「いま・ここ」に「言語」や「目的」を持ち込み、「手段」にしてしまわない。自らの「人生」に、ただ在る。そうすれば、状況の推移した「いま・ここ=人生」から見たとき、「楽しかった」が心に浮かぶ。

 

○ 「いま・ここ=人生」はたいてい恵まれたもの。ありがたく、いとおしいもの。人は思考することに忙しく、頭のなかにしかない過去や未来に目を向けすぎ、「いま・ここ=人生」の豊かさを損なっている。「いま」が、「ここ」が、「自分の人生」。常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」。このことを毎瞬・毎瞬 意識できると、命はかがやき、歓びと平安に自動的に包まれる。

 

 

 僕も先日、久しぶりにこのブログを更新しました。

 サイト「Blue あなたとわたしの本」のタイトルカテゴリである 『Blue あなたとわたしの本 201〜250』から15本を選び、ベストの第5弾をつくったのです。

 投稿日の古い順から読み返し、リンクを貼っていきました。デスクに向かって作業をしている「いま」が、「ここ」が、自分の「人生」、と認識しながら。「楽しもう」や「有意義に過ごそう」は持ち込まずに。

 ですが、そういったことも実はすぐに忘れ、ただただ夢中になりました。気がついたときには4時間以上が経っていました。「自分」というものもほとんど消えていました。僕はノートパソコンの蓋を閉じ、ワークチェアから立ち上がりました。ソファまで歩いていき、座りました。背もたれに身をあずけました。天井を見あげました。そして、やはり、こう思っていたのです。 ありがたく、いとおしい、恵まれた「いま・ここ=人生」のなかで。

 ──すごく、楽しかった、 と。

 

 

 

 

 

 

 








にほんブログ村 ポエムブログ 写真詩へ
にほんブログ村




写真詩ランキング






「Blue あなたとわたしの本」は毎日更新から不定期更新に切り替わりました。読者登録をご検討いただければ幸いです。ブックマーク、ツイッター、フェイスブック等でのシェアも大歓迎です。いつもありがとうございます。