エッセイ Blue 33
自分のためだけの風景というものがある。あるいは、自分のためだけの風景だと思える風景がある。そんな景色に出逢うと、すぐにそれとわかる。一年に数えるほどしかない。二、三回もあれば上等だろう。友人といっしょのときにそんな風景とめぐり逢うと、できるだけ早いうちに、その場所へ戻ることにしている。今度は一人きりで。予定は何も入れない。真っさらなスケッチブックのような一日のなかで、特別な景色と向かい合う。単独にならないと、五感や六感を全開にすることはできない。風景のほうも、自らを開け放ってはくれない。本当に「見る」ことをしないと、それは訪れない。本当に「聴く」ことをしないと、それは聴き取れない。待つ。この時間も、良いのだ。だから何も描かれていない白紙の一日を用意する。
やがて風景は、内気な少年や少女が警戒をゆるめるように、まばゆいその美しさを徐々に見せてくれるようになる。
空が頭上にあるだけではなく、360度を取り囲んでいるのを背中でも感じだす。樹木も立体感を増していく。奥にある枝は遠くに、近くの樹枝はしっかりと手前に突き出して見える。いままで二次元の景色を眺めていたかのように。枝と枝とのすき間までが確かになる。その間隔のわずかなちがいが見分けられる。日光をのせた葉々の一枚一枚も鮮明になる。樹液の巡るさままで想像されてくる。葉ずれの音もかろやかさをアップし、一帯にただよいだす。それは無数の水晶のようだ。そのきらめきのなかを舞う鳥たちは、
自分のためだけの風景というものがある。自分のためだけの風景だと思える風景がある。あなたにも、そんな景色がおありになるのではないですか。その場所を、久しぶりに、訪れてみるのはどうでしょう。そこであなたは独りになり、感覚の回路をひらき、独りでないことを直覚し、自らが本当は何であったのかを、思い出されるのかもしれません。慌ただしさや苛立ち、ごまかし、ねたみ、そねみ、敵意、── 様ざまな目くらましによって覆い隠されていた・私たちの正体を。
風景というのは僕にとって──自らをも含めた世界の本質へと立ち還る──入り口なのです。