Blue あなたとわたしの本 235
「線香花火の国」に行ったことがあります。もう30年以上まえの話です。
それはただの線香花火ではなく、その花火たちは、0コンマ4秒しか発火することができないのです。そんな「線香花火の国」でした。
フード付きの白いマントの男性と並び、ガラスでできた高みにある部屋から僕は外を見ていた。僕たち以外、ほかには誰もいません。
純白の広大な敷地に、無数の線香花火が生えていました。火玉が上を向いたかたちです。閃光が確かにひらめいているのですが、0コンマ4秒のことです。見えるか見えないかの一瞬で燃え尽きてしまいます。火が消えてしまうとそれが下がり、同じ場所からまた伸びてきます。一つが終わり、ふたたび生まれる。地平線に遠方が溶けこんだ平らな大地で、そんな光景が目まぐるしく繰り返されていました。線香花火は、白い宇宙に瞬く無数の星々のようにも映りました。
「よく見えますか?」、となりに立つマントの男が僕に尋ねた。非常に背の高い男です。口調は穏やかですが、その声は深い。
「目には、映っています」、言葉を選びながら僕は答えた。「でも、なにせ一瞬のことですから。今は昼間だし、それにここからでは、遠すぎる── 」
「少し低速で見てみましょう」
── 低速で見る?
マントの男は、物理的に何かを(ボタンを押すとかレバーを引くとか)したわけではなかったのですが、花火の燃え方が突然スローモーになりました。ある一画が拡大され、ガラスの壁面いっぱいに映し出されもした。どういう仕掛けなのか判断がつきませんでした。窓の外の実際の光景を今まで見ていたのか── それも映像だったのか── それすらもわからなくなりました。
線香花火の発火はなるほどよく見えるようになった。線状の火花が飛び散っています。花火たちは前後・左右と規則正しく並び、勢いよく閃光を発していた。金色をした雪の結晶がはぜ飛んでいるかのようでもありました。強風に柳があおられている燃え方もあった。それはそれで味があり、目を引き付けられた。複雑な抽象画を慌ただしく描くようなタイプもありました。どの花火も独特で美しく、魅力的に映った。
となりに立つ男が再び口をひらきました。
「彼らの声も聞いてみましょう」
意味がわからず首を回して男のほうを見た。その顔はフードですっぽりと覆われていて、口もとすら見えない。僕は、正面にまた視線を戻しました。
確かに、〝声〟が聞こえてきます。最初はぼそぼそと小さく、そして少しづつ音量が上がっていった。高性能のマイクを通したように── ややエコーもかかって── やがて鮮明に届くようになりました。
〝こいつの火花の散り方のほうが美しいようだ、ちきしょう、負けるものか!〟
〝発火音、はわたしのほうがキレイなはずよ。このヒトの発する音ったら〟
〝あいつの燃え方にみんな注目してるんじゃないのか? おれを見てくれよ! おれに注目してくれ!〟
〝すべての面で自分は劣ってる。いいところなんて一つもない。自分なんて早く燃え尽きちまえばいいんだ!〟
マントの男が深い声でまた言いました。「本来のスピードに戻してみましょう」
ガラスの外に、広大な白い大地がまた見下ろせた。無数の線香花火たちが燃えたり消えたりを繰り返しています。目にも捉えきれないスピードで。0コンマ4秒の発火。
「スローにしてみましょう」
彼らの声が部屋中にまたこだましました。
〝ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう!〟
〝おれだって、おれだって、おれだって!〟
〝わたしを見て、わたしを見て、わたしを見て!〟
〝こいつが憎い、こいつが憎い、こいつが憎い!〟
〝自分なんて駄目だ、自分なんて駄目だ、自分なんて駄目だ!〟
〝消えちまいたい、消えちまいたい、早く消えちまいたいよぉ!〟
気がつけば── 窓の外は白い大地にまた戻っていました。金色が、目まぐるしく瞬く無音のドラマです。0コンマ4秒と0コンマ4秒と、0コンマ4秒の発火── 。フードをかぶった男の姿はもうどこにも見当たりませんでした。あの男と出会うことは二度とないこともなぜだかわかりました。どういうわけか寂しさが胸にきざした。ガラスの部屋には誰もいません。 自分もここから立ち去るときだなと、僕は思った。
その当時、僕は旅をつづけていました。催眠術のような列車に乗り、知らない土地から知らない土地へ。見知らぬ国から、また見知らぬ国へ。 ほとんど誰とも口を利かず。 自分自身からも逃れるように── 。
「線香花火の国」を訪れたのはその一度だけです。最初にも申しましたように、それから30年以上の月日が経っています。でも、その日のことをありありと覚えています。そのときから僕のなかの何かが変わってしまったような気もします。
あなたも機会があれば、「線香花火の国」を訪れてみるのはどうですか? どの国を旅行されるよりも、あなたの内側を変えてしまうかもしれません。 そう、ほんの少しだけ。あるいは── 決定的なまでに。
心温まるタイプの「Blue〜」ではなかったかもしれませんが、つかの間ふしぎな世界を漂っていただくことも気晴らしになるのではないかと考えました。
音楽を始めとする芸術・表現── それらで満ち満ちた日常が一日も早く戻りますことを心より祈っています。
みんな、がんばろうね。 智(とも)