小説「記憶のたわむれ」④

 

 

 まぁ、待て。もちろんこれで終わりじゃない。ちゃんとつづきはある。東京に出てきてその五年後──つまり俺が二十三歳のときのことだ」

 藤堂さんは缶ビールに唇をつけ、残りを飲みほした。

「俺はそのとき、ぬいぐるみ劇団のチケットを小学校に売り歩く仕事をしてたんだ。けっこう大きな劇団でさ。全国で公演をうつんだ。俺の仕事はだから、営業のようなもんだな。車で日本中どこへでも行ったよ。三年間やったから、四、五千の小学校をまわった計算になる。四、五千だぜ。ちょっとした数だ。チケットを買ってもらい、会場の手配まですべて一人でやる。当日満員になった客席を見るときはいつも感激したもんさ。あぁ、この観客たちを全部自分が集めたんだな、って。もちろん劇団の信頼によるところであって、俺の力ってわけじゃないんだけどな。でもとにかく──なかなかやりがいのある仕事だった」

 藤堂さんはそこまで話し、腰をあげて新しい缶ビールを台所に取りにいった。僕はまだ一本目が残っていた。口のなかに粘っこい味が感じられた。コーヒーが飲みたいような気がしてきた。冷蔵庫の扉が閉まる音がし、藤堂さんは座卓に戻ってきた。今度はちゃんとグラスにそそいだ。一口飲み、手に持ったグラスを眉根をよせて眺めた。

「あるとき──劇団は京都で公演をうつことになった」、藤堂さんはグラスを戻し、鼻から息を吸い込んだ。口から長く吐いたあとにつづける。「担当するのは俺になった。土地勘のあるものがやったほうがたしかにスムーズにいくんだよ。でも俺はやりたくなかった。だけど、上司が決めたものを断るわけにもいかないもんな。

 十数年ぶりに俺の通ってた小学校を見たよ。そうなんだ。母校もちゃんとまわったんだ。校長先生にもあった。もちろん俺だって気づかなかった。背の低い目立たない子どもだったのが、今じゃ180センチを超える大男になってたんだからな。

 俺のいない年月も、京都って街があって、人びとの営みがつづいてたっていうことが──なんだか信じられないんだ。俺がすっかり京都のことを忘れてるのに、それでもこの街が存在してたっていう事実に──切なさに胸がしめつけられるような、もうしわけないような──何とも言えない複雑な気持ちになったよ。すごく自分本位な感じかただとは思うんだけど──。

 それで──チケットは問題なくさばけた。公演も成功した。よくやってくれたって会社も褒めてくれたよ。たしか俺はつぎ、北海道を担当することになってた。それまで一週間ばかり間があった。だから営業部長が、何日か京都でゆっくりしてればいいって言ってくれたんだ。故郷は久しぶりなんだろ? って。育ての親ともそのころはかたちだけのものになってたし、あの家へ寄る気はなかった。だけど会社がゆっくりしろって言ってくれてるのに断るのも変なもんだ。俺はそのままホテルに居つづけることにした。それで京都の名所をあちこちめぐったんだよ。正直、こんなにいいところだったのかって驚いた。行ったことのない寺なんかもいっぱいあったしな。静かな庭を何時間も眺めてると、石や樹木の立体感が不思議に増してくるんだよなぁ。それでいて気持ちの強張りは解けていく。素直になっていくのがわかるんだ。

 それで──明日いったん東京に戻るって日──おばちゃんの駄菓子屋へ行ってみようかとふと思った。

 十三、四年ぶりだかそこらになるんだもんな。もちろん俺だってわかりはしないだろうし。

 だけどおばちゃんがまだ生きていて、あの店があるかどうかは定かでない。おばちゃんは若く見えたけど七十近かったんだ。いまじゃもう八十だ。死んでてもおかしくはない歳だもんな。

 俺はホテルで夕方まで迷ったすえ、行ってみることにした。あたりはほの暗くなりだしてた。道は覚えてた。小振りな郵便局に、角の肉屋、豆腐屋。昔と変わらない家々の窓硝子、かわら屋根。夕ご飯をこしらえる匂いも漂ってきた。過去の時間が夕陽と混じりあって、ゆらゆらとたなびいているような気がした。

 船岡山  ふなおかやまっていう小山のふもとに、おばちゃんの駄菓子屋はあったんだ。山のなかには神社もあった。黒々とした山林とそのなかに立つ鳥居が西空を背景に見えてきたときには、自分の顔が泣き笑いみたいになっていくのがわかった。母校の小学校を見たときより感慨深かったな。俺にとってあのあたりと、おばちゃんの店こそが、母校だったのかもしれない。

 店も、あったよ。明かりが遠くから見えた。周囲はひっそりとしたところなんだ。昔から八時くらいまで店を開けてた。駄菓子屋の黄色い光が闇のなかに灯ってた。胸に甘ずっぱい痛みが走った。夕食を食べたあと寂しくなると、おばちゃんの店に一人で走ったりしたことも何度かあったんだ。

 俺の足はしぜんと速まってた。風が船岡山のほうから吹いてきた。土と樹木の懐かしい香りを含んでた。どこかの家の軒先で風鈴が鳴った。店の明かりが上下しながら大きくなり、目の前まで迫ってきた。

 だけど、そこで俺の足は止まった。なんていうか──おばちゃんを怖がらせはしないだろうかって思いはじめたんだ。つまり大人が──それもかなりの大男が──日暮れに駄菓子屋へ一人で入ってきたら、ふつう驚くじゃない? この二、三日、髭を剃ってないことにもそのとき気づいたしな。

 俺は、引き返そうかと思った。だけどここまで来たんだし、やっぱり一目会いたくもあった。俺は考えた。それで──こういうことにした。自分はフリーのライターで、いま全国の駄菓子屋を取材している、それでこちらのお店もちょっと見せていただきたいのです、よろしいでしょうか? という意味のことを口にしながら入っていけば、変じゃないんじゃないかって。怖がらせなくてすむんじゃないかってな。いま思うとそれもかなり不自然なんだけど、そのときは名案みたいに思えたんだ。俺は──そうすることにした。

 店の正面まで来た。もう迷いはなかった。俺は硝子の引き戸に指をかけ、その覚えのある重みを──ゆっくりと横へすべらした。

 

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 「記憶のたわむれ」⑤ へ つづく

 

 

 

 








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