小説「YES」 ①

 

 住職からお借りしている寺のなかの一室で、長崎に住む友人がくれた手紙を読んでいた。

 終わり近くにあった一文に目をやったときだ。二十年も前に聞いたある画家の話がよみがえった。

 印象深い話だった。だけど画家がある種の狂人であった可能性は否定できない。川原で精神錯乱を起こし、幻覚を見、それを神秘体験ととらえ、狂ってしまったのだ。すべてが作り話であった可能性もないことはない。何のためにそんなことをしなければならないのかはわからないけれど。

 何年も思い出すことはなかった。思い出すことはなかったが、僕という存在の深い部分にその話は取りつき、離れなくなってしまったような気もする。だが今の僕には、画家が出した結論に肯くことはできない。とうてい肯けない。肯けるわけがないのだ。

 奇矯なところもないではない・友人のくれた長い手紙の終わり近くの文章を読んだとき、二十年前の夜のことを鮮明に思い出した。

 僕は二十五歳で、横浜の関内に住んでいた。アパートから歩いて15分のところに新港埠頭の赤レンガ倉庫があった。埠頭も今ではずいぶんと整備されてしまったが、住んでいたころは荒涼としたものだった。そこがよかった。赤レンガ倉庫一号館・二号館がひっそりと建っていた。港はいつも閑散としていた。散歩する人をたまに見かけるくらいだった。哀調をおびた無国籍な雰囲気が好きだった。

 夏の夕暮れ、僕はそこで彫刻家と出会った(そう、最初にまず彫刻家と出会ったのだ)。

 赤レンガ倉庫二号館の前、地面から少し高くなった部分に腰かけていると、男が話しかけてきた。何度か埠頭で見かけたことのある人物だった。としは四十くらい。茶色いシャツに黒いジーンズをはいていた。足もとはがっしりしたワーク・ブーツ。まなざしは柔和で、唇に浮かべた笑みは内気そうだった。となりに座ってもよろしいですかと丁寧な口をきいた。その表情は、「よくお会いしますものね」と言っているように受けとれた。どうぞ、と僕も笑みを返した。日常的でないことが起こるのを歓迎する傾向が、そのころの僕にはあった。

 男は、自分は彫刻家なのだと名乗った。毎週土曜の夜に自宅でサロンを開いているのだ、とも。その日は土曜日だった。

「もう十人ほどが見えていますよ」と男は言った。「まだこれからたくさん来られます。あなたもどうです? おもに芸術家たちが集まっているんです」

 僕は芸術家じゃないですよと軽く笑ってみせた。

「では、あなたは何をする人なのです?」、男はきょとんとした顔つきになった。変な人だなと思った。少しはあった警戒心がゆるんだ。正直に答えた。

「何をする人間なのかゆっくり考えたくて、数年前に宮城から東京へ出てきたんです。新宿にしばらく住んだけど、どうも落ち着かなかった。二年前からは関内に住んでいます。ここから15分も歩けば僕のアパートですよ」

「私の家もここから20分です。お住まいはどちらの方角?」

 男の家も埠頭からたしかに20分くらいのところだった。僕のアパートとは逆の方角だった。

「参加費として二千円いただいているのですが、泊まっていってもらってもいいのです。今日も三十人ばかり来られます。半数の人は朝までおられるのではないでしょうか」

 妙な話だった。二千円? 泊まっていってもいい? だけど行ってもいいような気がしてきた。男と肩を並べて僕は彫刻家の家へと向かったのだ。男は、「答えを自分で選択する、という自由だけはいつだって残っているのです」と言ったり、「選んだことを真実にする力もまた人間にはそなわっているようです。いやぁ、たいしたものです」とよくわからないことをつぶやいては一人で肯いたりしていた。賑やかな通りを離れ、細い路に入り、右へ左へと小路を曲がった。初めて歩く界隈だった。頭上に提灯がやけに張りわたされている。陽が路上に斜めに差したり、また陰に包まれたりを繰り返した。建設中のランドマークタワーが遠くに見えていた。

 彫刻家の住まいは和洋が混じりあった古い大きな家だった。屋根つきの門をはいると、庭のすみに礼拝堂を思わせる建物があった。壁のうえ半分だけが夕日に赤く染まっているのが見える。玄関に達する。磨り硝子張りの厳しい扉を押す。広い土間には大きな電灯笠が下がり、乱雑に脱がれた二十人分ほどの靴を照らしていた。彫刻家は腰をかがめてそれらを揃えながら、「あぁ、もうだいぶ来られていますね」と人ごとのように言った。

 

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 「YES」② へ つづく

 

 

 

 








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