小説「きっかけ」⑤ 完結

 

 

 駅の構内を歩いていると、キャリーバッグを引いた何人かの男女が河原に気づくのがわかった。その顔が驚きや、あからさまな喜びの表情に変わるのが見てとれる。売店の女性も首を回してこちらを追っていた。バックパックを背負った女の子のグループ。悲鳴に近い歓声が上がった。知らない素振りで河原は歩きつづける。私のほうが人びとの視線を意識して緊張した。歩き方までぎくしゃくした。幸い、握手やサインを求めて寄ってくる人はいなかった。

 アナウンスが流れ、時間どおり新幹線がホームに入ってきた。

 私たちはベンチから立ち上がった。向かい合う格好になり、ありがとう、たのしかったと河原は言った。私もその顔を見上げ、たのしかったと返した。

「親父もだいぶ気が弱くなった」、河原は、苦笑めいた笑みを浮かべる。「思えば、もう七十過ぎてんだよなぁ」

 うちの母親なんか八十近いよ、と私も苦笑った。半身不随になった母のすがたが脳裏に浮かんだ。人が変わったように気難しくなった母親。美佐子に険のある言葉を投げつけるようになった母親。──頭のなかの映像をふり払い、おどけた口調をつくろって、つづけた。「つぎはもう少し早く顔を見せてあげなさい。忙しいだろうけど」

 そうするよ、と河原はうなずいた

「今度の映画も期待してる」、私は言った。「おもしろそうな話だ」

「そうだよな、あれはいいものになると思う。脚本がよくできてる。監督もいいし、おまけに主役が俺ときてる」

 私は笑い声を上げた。河原も笑った。が、ふいに真面目な顔になり、

「あの当時、俺はおまえに劣等感を抱いてた。だから素直になれなかった。然るべき絵の評価を──伝えてやれなかった」

 ──こいつは何を言ってるんだ? 劣等感? 何を言っているんだよ河原── 

「俺はおまえにも、たとえ二十八歳でもいいから、二十代のうちに幽霊と出会ってほしかったのかもしれないなぁ」

 そうつづけてから河原は、最後の言葉に自分で驚いたような顔になった。 

 またメールする、と河原は笑顔を取りつくろい、腕にかるくふれてきた。あぁ、と私も何も気づかないふうを装い、笑みを返した。

 河原は広い肩を斜めにして列車に乗り込んだ。入り口がずいぶんと小さく思えた。出発のベルが鳴り、扉が閉まった。新幹線が動きだした。ドアのところに立ち、腰をかがめて手のひらをこちらへ向けた赤い服を着た河原の姿はすぐに見えなくなった。列車は思いのほか大きな音とともにスピードを上げてホームから出た。赤い尾灯がカーブを描きながら遠ざかり、小さく浮かぶいくつかの白い灯りと重なりあってにじみ、やがてスローモーションのような速度になったかと思うと、奥にひろがる闇のなかへ吸い込まれて消えてしまった。

 鈍く光る線路だけが、そのあとに残った。

 さぁ、帰るか、と私は気を取り直そうと努めた。両手で頬をこすった。こめかみがうずいた。何かが傾いたまま元に戻らなくなったような感触が頭の奥にあった。視界にもやがかかり、耳鳴りがした。夜気も冷たく感じられる。タイル張りめいたデザインのホーム。蛍光灯の列を反射し、白々と光る足元から冷気がのぼってくるような気がする。首すじにまで悪寒が走った。シャツのボタンを上までとめた。青いジャケットのポケットに両手を突っ込み、目だけを上げて斜め上を見た。

 向かいのプラットホームの屋根と、こちらのホームのひさしに切り取られ、横に細長くのびる夜空──そこに赤いワンピースを着た少女が浮かんでいた。

 弾かれたように目を見ひらいた。少女のほっそりした身体が星空を背景にして浮いている。腰は伸ばしたまま、やや前傾している。こちらをじっと見つめていた。呆然と立ちつくし、見返した。異なった時空にあるものがこの空間に重なり、五感を超えたところで知覚できているような気がした。恐怖は湧いてこなかった。少女の顔が不自然なほどはっきりと見える。対象物との間に大気が存在していないかのようだ。理知的な鼻筋。ふっくらした唇がわずかにひらいていた。若々しい頬の弾力まで感じとれる。前髪が微風にゆれ、かたちのいい眉が見え隠れする。その下にある黒目がちの双眼は哀しみと言うには透き通りすぎているし、無念さと呼ぶには凛としすぎていた。それでも哀しみや無念さもたしかに含んでいて、揺るぎない情熱が宿っているのもわかる。濁っていない・どこまでも真っ直ぐな目だった。汚れたものを映す前に閉じられてしまった目だった。くっきりとした二重瞼の線。その美しい瞳を見ていると、遠い記憶が呼び覚まされるような眩しさに息苦しくなった。

 少女はその小さな唇を動かし、張りのある声で話したのだろう。若草のようなみずみずしい体臭も持っていたのだろう。締めつけられるような痛みが胸に走った。娘の眼球の奥からこちらの心に何かが伝わってくる。彼女の心と同調し、目まぐるしく動く木洩れ陽めいた煌めきとなってその心情が理解できていく──。

 自分の頬を涙がつたっている感触に気づいた。涙が流れていた。唇が濡れ、塩の味を舌に感じた。血を舐めたのかと思った。おれもまだ泣くことはできるんだな。自分への訳のわからない怒りも下腹から突き上がり、それに押されて蓋のような何かが内側で回転し、そのまま砕けていくのを自覚した。ばらばらになることによって、同時にかたちを取り戻したような、奇妙な恍惚も訪れた。明るい秘密のような光がそこへ射した。自分のなかに生まれた新たな、そして懐かしさも覚える形状を眺めた。そこにはいくつものダムが築かれていた。水流をせき止めていた。それは自らがこしらえたダムであり、流れようとする水はもっと切実に自らだった。水は透明だが絵の具の匂いを放っていた。水彩ではなく、それは油絵の具の匂いだった。潮騒みたいな葉々の音が聞こえた。風が水面をキラつかせながら吹き過ぎていく。指さきに、絵筆の感覚が戻ってきた。パレットナイフの手触りがよみがえった。絵の具をすくう感触。シャッ、というナイフとパレットがこすれる音。たっぷりとした油絵の具の重み。その匂いを胸に吸い込みながら、キャンバスに力いっぱい打ち付ける。赤が、青が、黄が紫が、重なっては光った。重なっては弾けた、弾けては光った。

 ──ココは馬鹿なことをするためにあるんだよ。河原の声が胸のあたりで再生される。いま、いま、いま、自分のやりたいことに没頭すりゃいいんだよ。へたに利口ぶろうとすると、それこそホンモノの馬鹿になっちまう。あの娘と出会わなかったら俺はこの町でまだ会社勤めをしてたよ─── 

 

 気がついたときには、少女の姿は夜空になかった。

 そんなものは最初からなかったのだ。自分は幻影を見たのだ。河原の声も流れてこない。唐突に起こった内側の高ぶりも、もう引いていた。

 うつむき、苦笑しながら首を振った。帰ろうと思った。今度こそ本当に帰ろう。飼い犬の水彩画をあと何枚か描かなければならないことも頭にのぼった。娘の同級生たちが欲しいと言っているのだ。美樹ちゃんのお父さんって、けっこう絵、上手なんだね、と。そこで笑いが込み上げてきた。突発的な笑いだった。ヒステリックな笑いだった。

 けっこう上手か──。美樹ちゃんのお父さんって、けっこう絵、上手なんだね、か──。

 
 きびすを返し、ホームをあとにするまで、ずいぶんと長い時間がかかった。

  

f:id:btomotomo:20160605164514j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。毎日いただくコメントが励みでした。
 小説を読んでもらえる喜びというのは、やっぱり特別かもしれませんね。
「私も読んでたよ」という方、ブックマークでもコメント欄でも、是非ひとこと お残しください。
 長文でもありがたいですよ(あなたの解釈を聞かせてください)。

 ご訪問くださった全ての皆さまに感謝しております。
 楽しんでいただけたのならうれしいのですが。
 
 智(とも)

 

 

 

 








にほんブログ村 ポエムブログ 写真詩へ
にほんブログ村




写真詩ランキング






「Blue あなたとわたしの本」は毎日更新から不定期更新に切り替わりました。読者登録をご検討いただければ幸いです。ブックマーク、ツイッター、フェイスブック等でのシェアも大歓迎です。いつもありがとうございます。