小説「きっかけ」④

 

 

 きみは──、と私がさきに口を開いた。「幻覚ではなかった、と思っているんだな」

 河原は顎を引くような動作をした。

 河原の目をのぞき込んだまま、知らず知らず声をひそめていた。「なんでそれが生きてる人間じゃないとわかったんだ?」

 河原は低い声でうなり、胸の前で腕を組んだ。眉間にしわを寄せて斜め上を見る。生真面目なその表情には高校時代の面影があった。そうだ、と私は思う。河原はよくこういう顔つきになった。あのころ二人で通った喫茶店でもしょっちゅうこの表情になった。レトロな置き洋燈がテーブルごとにあった。脚の部分は鉄でできていた。深い色をした笠には葡萄の図柄があった。二人ともその照明をとても気に入っていた。ぼんやりした光に照らされた十代の河原の顔は、無垢で、美しく、西洋絵画のように映った。こいつがつまらない嘘を吐くところなど見たことがなかった。

「ただ、わかったんだ」と河原はゆっくりと言った。「あぁ、この子はもう死んでいるんだな、って。しいて言えば、透明なガラス越しに見ているような感じはあった。透明だからほとんど気にはならないんだけど、なにかしらもどかしい感じは残る。こちらの顔の角度をしきりに変えて見てしまいたくなるような──」

「違いらしいものといっても、その程度なのか?」

「あとは、その子の浴びてる木洩れ陽が十年ほど前の光だった」

 意味がよくわからない。どういうことだと私は聞いた。

「あずまやの頭上に、屋根の代わりに梢がかぶさってたんだ。風が吹くと、葉むらを抜けてきた光の斑点がテーブルの上で動きまわった。女の子の赤い服や、素肌の白い肩でもひるがえった。だけど、その光がもっと昔のものなんだ。十年くらい前に、この場所に降ってた光だ。それも一日だけのものではなく、何日か分の、いや、何年か分の夏の光がかさなりあった木洩れ陽だった。この場所に一人で何回も来てたんだろう。何回も何回もだよ。それが理屈じゃなく、直覚的にわかったんだ。ほとんど一瞬にして」

 私にはわからなかった。河原が何を言っているのか理解できない。女の子はその場所で死んだのか? と聞いてみた。いや、それはないと思う、としばらく間を置いてから河原は答えた。うん、それはない、それはないな、と一人でうなずいている。私は話の方向を少し変えてみることにした。さっき、女の子は本を持っていたと言っていた。となりに坐ってからも手にしてたんだろうか? 

 あぁ、持ってたよ、と河原は答えた。

「だけどそれは小説とかじゃなく──台本だった」

「台本?」

「演劇の台本だった。膝の上でページをひらいてた。そこでも光と影がつくる模様がゆれ動いてた。書き込みがいっぱいあった。そうとう稽古してたんだろう。ぼろぼろになってた。その子は台本をひらいたまま、細い首を曲げて俺の顔を見てた。頬から顎にかけて、十代の少女だけがもつ儚い丸みがあった。そこに陽が降りそそいでた。楕円や長方形、三角っぽい光斑が目まぐるしい速さでかたちを変えつづけてた。葉々の緑色がかすかに混じってる陽の光だった。その光の色が耳から顎さきへの輪郭線もつくってた。──二重瞼のくっきりとした・きれいな子だったよ」

「それで、どうなったんだ?」

 急に──、と河原はどこか申し訳なさそうに目を伏せた。「怖くなってきたんだ。自分の動悸が耳の奥で聞こえた。腋の下を冷たい汗がつたった。反対に喉はからからに渇いてた。そりゃそうだろう。人っ子一人いない場所で──いくらかわいくったって──すでに死んでいる人間と鼻を突き合わせているんだ。

 俺は自分の台本や、ラジカセ、飲み物なんかをリュックにしまいだした。馬鹿みたいだけど、さりげなさを装ってな。詰めおわり、ベンチから腰を浮かせた。テーブルの左側をまわって、右方向に進んだ。あずまやから出た。遊歩道をいったん左へ歩く。歩道は右へカーブしてる。そしてそこからは直線だ。早足になった。10メートルほど進んで、後ろをそっとふり返ってみた」

「もう、いなかったのか?」

「いや、いたよ」と河原は言った。「同じベンチに坐ってた。まだこっちを見てた。なぜかその一画だけが澄んで見えた。表情までわかった。哀しそうだったよ。寂しそうだった。何か言いたげでもあった。華奢な、素肌の肩の線が痛々しかった。右の手のひらをこちらに向け、胸の高さまで上げてたんだ。指は全部伸ばされてたよ。どういう意味のある所作なのかはわからない。その女の子はその姿勢のまま、手のひらをこちらへ向けたまま、かすかに緑色が混じった夏の木洩れ陽を浴びつづけてた。幾年もの、目まぐるしく変わる夏の木洩れ陽を──」

 ──なんと言えばいいのか言葉が出てこなかった。河原も、テーブルの一点に取りとめのない視線を落としていた。しばらくして河原はカップに手をのばし、残りのコーヒーを一息に飲んだ。つられて私も口をつけた。もう、すっかり冷めきっていた。

「そのことがあった二日後に、俺は会社を辞める決心をした」

 河原は、ソーサーへゆっくりとカップを戻し、私のほうを向いた。おだやかな表情だった。「上京する日、おまえはホームまで送ってくれた。あれがちょうど一週間後だよ」

 わからないな、と私もカップを戻して言った。どうしてだかテーブルにもやがかかったように見える。急に疲れをおぼえた。「なんで幽霊を見たら上京するんだよ?」

「さぁ、どうしてかな」、河原は唇の端だけで笑った。それから、手のひらに載っていた見えない何かを真上にかるく放るような仕草をした。「俺自身、こうこうこれこれの理由でです、とは言えないよ。たしかにあれはまぼろしだったのかもしれない。幻覚を見たのかもしれない。だけどあの日、あの場所で、ああいった幻覚が俺の人生に訪れたってことは紛れもない事実なんだ。言えることは、あんな経験をしなかったら──あの娘と出会わなかったら──俺はまだこの街で会社勤めをしてたよ。定時になったらさっさと帰り、素人劇団で芝居をし、おまえに高すぎるチケットを売りつけてただろうよ」

 

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 「きっかけ」 ⑤ 完結 へ つづく

 

 

 

 








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