小説「記憶のたわむれ」⑦ 完結

 

 

 話は──終わったのだ。

 なんと言えばいいのかわからなかった。知らないうちに僕も右の手の甲で意味もなく口もとをこすっていることに気づいた。膝の上に手のひらを戻した。藤堂さんは同じ姿勢のまま、動かなかった。

「つまり──」と僕はひそめた声で言った。「おばさんは、幽霊だった──」

「わからん」、藤堂さんは思いのほかすぐに答え、顔を上げた。首を振り、どこか自嘲気味に微笑わらった。

「いまでもわからん。おばちゃんにはしっかりした存在感があったし──なんといっても抱擁までしたんだからな。和服に染みついたお菓子の匂いまで嗅ぐことができた。そんな幽霊っているか?」

 藤堂さんはまた短く黙ったのち、つづけた。

「だけど──そうだったんだろうな。そうとしか考えられない。説明がつかない。正直──俺にはもうどうだっていいんだよ。幽霊だろうが、夢を見ていたんだろうが。俺はたしかにあの夜、おばちゃんと再会した。──それだけでいいんだよ」

 僕もうなずいた。たしかに、それでいいのだろう。そう。それでいいのだろう。

 なぁ、八代──と藤堂さんはとつぜん硬いひびきを含んだ声を出した。テーブルに手をついて前かがみになり、首をかしげるようにして僕の目をのぞき込んだ。

「おまえは、小説家になりたいのか?」

 顔つきも真剣だった。急に話が変わり、僕はとまどった。口わきのあたりが強張ってくるのを自覚する。自分は職業作家になりたいのだろうか? ──わからなかった。

 僕が黙っていると、藤堂さんは冷たくも思いやりぶかくも聞こえる不思議な語調になって話しだした。

「才能はあると思うよ。おまえの書いた文章を数行追ってみると、あれよあれよというまに最後まで読まされてしまうもんな。夢中にさせられる。これはすごいことだよ。本当にすごいことだ」

 僕はほとんど謝るように、ありがとうございますと頭を下げた。

 だけで、と藤堂さんはつづけた。

「まだ本物、ではないよな。深みがない。何かが足りない。俺は文学の専門家じゃないから偉そうなことは言えないけど──なんていうか──そう、〝これで日本一になってやろう〟っていう気迫みたいなものをまるで感じない。極めようっていう気もさらさらないようだ。磨きもしてない原石のままの才能をただばらまいてるって感じだ。ちがうか?」

 たぶん、ちがわなかった。気楽に書き飛ばしたものが活字になる面白さと、口座に振り込まれるわずかの金にほくそ笑んでいただけなのだ。二十歳はたちにもならない若さで──。僕は下唇を噛んだ。

 藤堂さんの口調がやわらかく、優しくなった。

「今もたくさんの人間が、日本一の小説家をめざして真剣に努力しているはずなんだよ。本物の小説を書こうと日々戦ってる。やっぱり男に生まれてきたからには、すべてを捧げられるものを見つけたいとは思わないか? 頭の悪い言いかただってことはわかってる。だけど──俺はそう思うんだよ。いまもずっとその対象をさがしてる。これからもさがしつづけていくつもりだ。惚れ込んだことに捧げつくして初めて、人生ってやつは人生になるような気がするから──。

 大きなお世話だってこともわかってる。だけど与えられた才能を真剣に磨かないのは罪だと俺は思うぞ。八代は若い。たっぷり時間を持ってる。もっと小説に──ほんとに書くことが好きなんだったら──本腰を入れてみるべきなんじゃないのかな──」

 僕はまだ黙っていた。そのとおりなのかもしれないと思った。僕も、自分自身を見つめるために独りで生活する必要があるんだと大きな口をたたき、高校を中退してまで上京してきた地方の田舎者だった。僕には藤堂さんとちがって親もいる。訳のわからない理屈をこねる僕をゆるし、いまも仕送りをし、見守りつづけてくれている両親がいるのだ。不意に、しめつけられるような痛みを胸に覚えた。

 がらにもなく説教臭いことを言っちまったなと藤堂さんは耳の後ろを掻き、目をそらした。テーブルに両手をついて、「よっ」とおどけるような掛け声とともに立ち上がった。パイプベッドの足もとのほうへ向かって歩いた。本棚のそばの押し入れの引き戸に指をかけた。ゆっくりと横へすべらし、あけた。

「これ、八代にやるよ。今夜、話しはじめたときから何となくそうしたほうがいいような気がしてたんだ。なんでだか俺にもよくわからないんだけど──」

 

 けっきょく、その夜が藤堂さんと会った最後の日となった。翌日、藤堂さんは競輪場にあらわれなかったのだ。上番じょうばん時間の十分前になったので僕は警備会社へ電話してみた。今日、藤堂さんはどうしたんですか、と。まだ来られませんけど? 

「トウドウ? 誰よそれ?」

 ホスト上がりの管制補佐、飯田の声が言った。またかと僕は思った。この二十三かそこらの茶髪の男はよくつまらない冗談を言うのだ。今日も紫色のジャケットをはおっているのかもしれない。僕は我慢強くつづけた。

「いやだなまた、藤堂さんですよ。僕とコンビを組んでる」

「八代くぅん、大丈夫かぁ?」、飯田は語尾を長くのばす馬鹿にしたような口調になってつづけた。「その若さでボケてどうすんのよ。なんであのポジションに二人もいるの? 近隣から苦情が出ないように住民対策で一人立ててんじゃん。寝ぼけたこと言ってないでネクタイちゃんとしてるぅ? このあいだ営業がまわってたら八代くん、してなかったって話じゃあん」

 僕は適当に笑って電話を切った。飯田はまたふざけているのだ。藤堂さんは風邪でもひいたのかもしれない。あの部屋はけっこう寒かったからな。

 だが次の日も、次の週になっても藤堂さんはあらわれなかった。不思議なことに代わりの人間さえ誰も来なかった。藤堂さんはそのまま警備会社を辞めてしまったのだ。

 

 あれから十二年が経った。

 僕はいま小説を書いて生活している。

 藤堂さんがいなくなったあと、僕は夜間のビル管理のほうにまわしてもらった。百円ライターや点火器関連の商品をあつかう大きな会社だったが、警備の仕事としては楽なものだった。すべての社員が帰宅するとビルの戸締まりをし、見まわりの時間以外は宿直室でひとり原稿用紙のたばに向かった。昼間はアパートに帰ってきて眠り、夕方にまたビルへ行く。社員を送りだし、戸締まりをし、朝まで小説を書く。その、繰り返し。昼と夜が逆転しているだけでそれほどきつい生活とも思わなかった。若かったのもあるのだろう。思えば生活費を稼ぎながら創作に集中できた有りがたい日々だった。

 例の〝恐怖体験記〟を文庫本に収録してくれた出版社に、僕は五本の小説を送った。どれも三〇枚前後の短編。二十二歳のときのことだ。最初、持ち込んでもいいかと電話で聞いてみた。郵送してくれというのがその返事だった。読むのは何ヶ月か先になりますよ、とも。かまいません、と僕は答えた。編集者が目を通すことを承諾してくれただけで胸が躍った。〝新人賞〟が欲しいとは思わなかった。目立つことがとにかく好きではなかった。書いたものを読者のもとに届けられればそれでよかった。そのかわり、そういう状況だけはどうしても手に入れたかった。

 電話は思いがけず二週間後にかかってきた。いちど会いませんか、と前回と同じ編集者の声が言った。裏通りにある静かな喫茶店で待ち合わせた。三十歳にも四十歳にも見える不思議な顔立ちをした男性が来た。笑みを浮かべることはなかったが威圧的なところもなく、静止画像を連想させる妙な落ちつきが感じられた。よく磨かれた靴を履き、スーツとネクタイの色がよく合っていた。

 一作一作、丹念に読んできてくれたのがわかった。文章を指先でなぞりながら低い声でアドバイスもしてくれた。納得のいくものだった。指摘された点を何度も書き直した。目に見えて良くなっていくのが自分でもわかった。毎週のように会った。あと五本、短編を書いてみましょう、とも編集者は言った。

 一年半が過ぎたある日、目の前で読んでくれていた新作の原稿を、編集者は喫茶店のテーブルの上で丁寧にそろえなおした。こちらを向き、「出版しましょう」。ほとんど初めて親密な笑顔を見せた。三十歳でも四十歳でもなく、十代のような笑顔だった。うれしさのあまり、体じゅうの力が抜けていったのを覚えている。

 ベストセラーになったわけではもちろんなかったが、これだけの人が買ってくれたのかという目で発行部数を眺めると、ほとんど信じられない数字に思えた。ありがたいと同時に覚悟が決まった。

 二十五歳のとき、二冊目の短編集を出した。前作よりも少しだけ売り上げを伸ばした。

 そして二十七歳のとき、中編二作をおさめた三冊目の本がよく売れてくれたのを機に、僕は勤めを辞め、創作に専念することにした。生活が立ち行かなくなったらそのときはまた考えればいいさと気楽にかまえた。

 日本一の小説家をめざしているのか、と尋ねられれば、「わからない」といまでも答えるしかない。ただ、書きたい、というこの情熱に素直に従おうと思う。努力することも苦しいとは思わない。努力だとも思わない。一生を終えるとき、いちばん最後の作品が最高傑作であることを望んでいる。いちばん最後に書いた文章が最上の文章であってほしいと願っている。そんなふうに思っているだけだ。

 時どき、僕はこんな想像をすることもある。どこかの町で、藤堂さんが駄菓子屋を開いているところを。子どもたちに哲学的な話を聞かせているところを。干し草みたいな匂いのする男の子や女の子が藤堂さんにしがみついているところを。子どもたちのその甲高い笑い声を。「おっちゃんは日本一の駄菓子屋のおっちゃんやで!」と四十歳を過ぎた藤堂さんが、がなっているところなんかも。

 藤堂さんにまた会いたいと思う。彼は僕の本を読んでくれているだろうか? 

 窓から差し込む秋の陽射しが小説原稿を染めている。常緑樹を通して届くその光は、ゆれ動く模様を作っている。楕円形の光斑が三角の影にまじわり、たわむれ、離れてはまた重なり、いつしかひとつの光となって判別もつかなくなる。

 僕は原稿から顔を上げ、仕事場の西側の壁に、また目をやる。

 藤堂さん、僕はいま、五冊目の本を書き上げたところですよ。〝おばちゃん〟のエピソードを作品に組み込んだ、初めての本格的な長編小説ですよ。

 どれだけ才能があるのかはわからないけれど、この能力を粗末にせず、真剣に磨いていくつもりです。できないことだらけの、とても弱い人間だからこそ。

 

  あんたは気が弱いんとちがう。神経の感度が人より良すぎるんや。もちろんそういう人間にしかできひん仕事、役割いうもんがあるんや。

 

 

 藤堂さんがあの夜くれた〝巨人の野球帽〟は、いまも僕の仕事場の壁に、大切にかけられている。

 

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