小説「YES」⑥

 

 翌週はもう新学期が始まりました。

 私は日曜日が来るのを待ちわびて、また上流まで行ってみたんです。でも、何度行っても彼女には会えませんでした。もう学校が始まっているんですものね。

 ── 十六歳の、私の夏はそれで終わったのです。

 

 そして十七回目の夏がやってきました。

 私は夏休みに入ると、すぐに上流に通いだしました。あの場所へ。毎日です。もちろん彼女にまた会えるのではないかと思ったからです。

 ── 彼女は、来ませんでした。

 いちども会わないんです。去年みたいに行き違いになっていたということもないのです。こちらは毎日来ているわけですから。それでも、会えませんでした。

 八月も半ばを過ぎました。私の肌は何度も皮がめくれ、ひどいことになっていました。ほとんど火傷のような状態です。痛くて痛くて、風呂に入るのも一苦労でした。それでも毎日上流へ通いました。

 そして八月もあと数日という日、彼女を見ました。

 その日も夕方ちかくまで川べりにいて、あきらめて車道へ登ってきたのです。それからなんという理由もなく、さらに上流まで自転車を漕いでみたんです。どうしてそんなことをする気になったのか分かりません。一種の勘のようなものだったのでしょうか。

 そうしたら── 彼女の自転車が停まっていたのです。白いあの自転車です。私は呆然とその場に立ちつくしました。目にしているものがすぐには信じられないのです。

 5分も経つか経たないかというときです。斜面を人が登ってくる物音が聞こえてきました。

 あわてて自転車をもっと先まで進めました。十五、六メートルも行くとちょうど掘っ建て小屋がありました。凍結防止剤なんかが入っている物置きです。私は自転車から飛び下り、壁に張りつくようにして白い自転車のほうを窺いました。

 女の子が登ってきました。

 間違いなく彼女でした。よく日焼けしていました。髪は去年より少し長いように見えました。ずいぶん大人っぽくなったようにも思えました。

 彼女は自転車の鍵をはずし、髪を手グシで大まかに整えました。私の頭のなかは奇妙なほどしんとしていました。そのなかでカシャン、という音が響きました。彼女がスタンドを起こした音です。

 行ってしまう、と思いました。

 でも声は出ませんでした。それでも、ある決定的なことを私は感じていました。

 彼女はサドルにまたがりました。ペダルに足をかけました。自転車が動きだします。去年より長くなった後ろ髪が風になびきました。記憶のなかの彼女の匂いを嗅いだような気がしました。ひなたに生えた若草のような、あの匂いです。

 気がつけば、私はその場に立ったまま涙を流していました。

 表情はたいして崩れないのです。ただ、涙だけが後から後からひとりでに落ちていくのです。

 そうです、彼女は、。そこを通り過ぎ、もっと先の場所まで来ていたのです。

 私は遠藤周作の「白い人」を読みました。分からぬままにドストエフスキーを読み、ダンテを読みました。シュティフターもやっと探し当てて読んでみました。だけどもう、彼女にそれらの感想を伝えることはできないのです。

 私はもちろん、彼女に好きだとも交際してほしいとも言ったわけではありません。だけどこのときほど、失恋、という二文字を意識したことは後にも先にもありません。私は小屋の陰に身をひそめたまま、一人っきりで涙を流しつづけました。

 

 ── 話をここで終われば、少年のころの淡い恋物語になるのでしょうが、もちろん後日談があるのです。

 私は、彼女の姿をもういちど見たいという想いを抑えることができなかったのです。彼女の新しい場所へまた行ってみたんです。通いだして三日目に、白い自転車が停まっているのを見つけました。昼をすこし過ぎたばかりだったと記憶しています。なるべく音を立てないように、斜面を下っていきました。中ほどまで下りたところで両足がガクガクしてきました。音をさせないように傾斜を下りようとすると、いつも以上に腿の筋肉を使うことをそのとき知りました。それでもなんとか平地までたどり着きました。その場所もやはり草原くさはらになっていて、すぐ川が流れているわけではありませんでした。晴れあがった空の下、腰のところまである草を掻きわけながら、ゆっくりと進みました。草と草がこすれあう音を聞いていると、鼓動が早くなっていくのが自分でも分かりました。何か、やたらと怖くなってきたのです。それでいて、頭のなかはどこか空ろです。むせかえるような草いきれのなか、掻きわける両の手のひらに緑の弾力を感じつづけました。かなりの距離を歩いたと思います。そして、

 彼女の姿を見つけたのです。

 

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「YES」⑦ へ つづく 

 

 

 

 




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