小説「YES」⑤

 

 またあお向けになりました。雲がゆっくりとかたちを変えながら移動しています。私はずいぶんとリラックスしてきて、より自然体で話せるようになっていました。女の子の声も親密さが増してくるように感じられます。私は、「どうしてこの場所にいるとこんなに安らぐんだろう?」と汗の玉をいっぱい浮かべた女の子の顔を見ながら聞いてみたのです。彼女の横顔がにじみ、一瞬、斜めに大きくふくらみました。私のまつ毛にも汗がくっついていて、レンズの働きをしたせいです。彼女は言いました。

「自分が肉体というものを持っていることや、精神というものを持っていることを忘れられるからだと思います。わたしがわたし自身のことを完全に忘れているとき、わたしは幸福を感じる。肉体でも精神でもない何かが幸福を感じるのです。そしてその何かは、すべての命とつながっている。あなたとも、アメリカの人たちともです。だから、この世界には敵も味方もなく、国、なんてものもないのです。あるのは── あるのは、どことも知れない時空に浮かんでいる、ぽっかりとした〝謎〟だけです。そしてその〝謎〟は、本来、悪意というものを含んでいないように感じます」

 そのときの私には彼女が何を言っているのか分かりませんでした。どうして私がアメリカの人間などとつながっているのかと憤りすら覚えました。そうです、そのときの私には分かりませんでした。彼女の言った言葉の意味を理解するのは、ちょうどそれから一年後の夏のことだったのです。

 私たちはいっしょに川のなかへ入りました。

 八月でも川の水は冷たいんです。でも、とても気持ちよかった。淵の奥まったところまで二人で泳ぎました。彼女の頬で葉むらから洩れてくる光の斑点がふるえました。枝葉のないところにくると、肩先の丸みがまぶしいほどに陽射しを照り返した。彼女は笑顔を私のほうへ向けてくれました。そのたびに、私の鳩尾みぞおちが真っ白く伸びひろがっていくように感じたものです。

 なにせ山奥ですから、切り立った崖や木々に陽光がさえぎられ、四時を過ぎると陽のあたるところが限られてしまうんです。私たちは陽のさすところ陽のさすところへシートを移動させました。太陽の最後のひとしずくまでを浴びようとする、二ひきの特殊な生き物のようにです。

 五時になり、二人で川辺を離れました。彼女はびっくりするほど身軽に傾斜を登っていきました。私よりはるかにうまいものでした。あれには驚きましたね。

 女の子も自転車でした。あの当時の自転車というのはたいてい真っ黒で、鉄のかたまりみたいな感じでしたが、女の子の自転車は白い色をしていました。私はそのとき初めて、白い自転車というものを見たような気がします。

 私たちは坂道を下りました。カーブの多い道です。左側に樹木が繁り、右側は谷でした。色を薄めた山々が遠くに連なっていました。

 行きはのぼりでつらいのですが、帰りは楽です。ペダルなど漕がなくても自転車は飛ぶように走ります。彼女も私も笑い声を上げました。その声も風が吹き飛ばしていきます。髪の毛が彼女の目を隠したり後ろへ激しく舞ったりしました。風の音が耳もとをうなりながら過ぎていきます。彼女が笑うと顎の輪郭の美しさがきわだつように思えました。車道まで来るとまだ西陽が強く当たるんです。彼女のひたいや鼻すじ、顎先、ハンドルをにぎった私自身の前腕が黄色っぽく輝くのを目にしました。なにか記憶に焼きつくような光でした。路面に映った彼女の自転車の影が、私の自転車の前になったり後ろになったりを何度も繰り返しました。

 川の流れが車道から見えるようになりました。田畑もぽつぽつと現れだします。神社を過ぎ、瓦屋根の民家も見えてきました。もう、ペダルも漕がなくてはなりません。

 彼女と別れるときが来たのです。

 みなさまだったら、きっと連絡先を聞かれたことでしょうね。でもそのとき、私は考えつきもしなかったのです。とにかく町が近づくにしたがい、もう別れなければならない、もう別れなければならないと、そればかりを考えていました。

 橋を渡りました。五、六人の子どもが甲高い声を上げながら駈けてき、土煙が上がりました。頭に手ぬぐいを巻いた男がリヤカーを引いていました。エプロン姿の老女が黒い犬をつれて散歩していました。そして私がいつも道を曲がる麦畑のところまで来たのです。

 女の子は、わたしの家はまだこの道をまっすぐです、と小さな声で言いました。よく覚えています。うん、って私は彼女の白いシャツの胸ボタンを見ながら答えました。もっとほかに言いようがあったろうにと思います。はがゆいです。

 彼女はものすごく力強く見えたり、ガラス細工のように見えたり、印象が定まらないところもありました。

 じゃあ、って彼女はまた弱々しい声で言いました。うん、ってもういちど私は言って、手のひらを肩のところまで上げました。砂利道が夕陽をうけ、金箔を敷き詰めたかと思うほど照り輝いていました。その道を、半ばシルエットとなった彼女の後ろ姿が遠ざかっていきます。自転車の角度がすこし変わり、後輪のスポークが一瞬きらめいたのを覚えています。彼女はふり返りませんでした。姿が見えなくなるまで、私はサドルにまたがったまま立っていました。赤い夕空が、頭のうえ高く、どこまでもひろがっているのを感じていました。どこまでもどこまでも、赤くひろがっているように思えました。

 

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 「YES」⑥ へ つづく

 

 

 

 




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