小説「YES」④

 

 私はいつものように川縁にシートを敷き、あお向けになったまま少しうとうとしていました。

 かさっかさっ、という足音がしました。最初は川の流れる音だと思ったんです。川音というのは、意外と複雑なものですからね。人が何人かでしゃべっているようにも、歩いているようにも聞こえることがよくあったのです。そのときもそうだと思いました。ですが耳をすましますと、やっぱり人が歩いてくる音のようです。頭の方角から音はします。私は目をあけ、肘で上体を起こし、肩越しに振りかえってみました。

 女の子がいました。

 私と同い年くらい。十六、七歳の女の子です。やっぱり草原くさはらを掻きわけて来たんでしょうね。急勾配も下ってきたのでしょう。すぐには信じられませんでしたが。

 女の子も放心したような顔をしてその場に立っていました。人がいるなんて思いもしなかったんでしょう。私も同じような表情を浮かべていたのだと思いますよ。

 その子は黒いスラックスをはいていました。ジーンズなどはまだ一般に出回る前の時代です。上は半袖の白いシャツ。やわらかそうな生地でできたカバンを肩から斜めがけにしていました。細い腕も顔もきれいに日焼けしています。襟もとで揃えられた髪が光を受けてきらめいていました。

 ひたいに汗の粒を光らせ、胸もともぐっしょりと濡れています。女の子の顔に、困惑というか逡巡というか、複雑な色が浮かんできました。目が合ってしまったし、あわてて引き返すのもどうかと思ったのではないでしょうか。取り乱すふうではなかったのですが、どうしていいのか分からないという面持ちでした。

 私は思いきって話しかけてみました。

「ここで、くつろごうと思ってたの?」

 川の音がけっこう大きいですから、負けないような声で言いました。女の子は黙ったまま頷きました。「この川原で?」と私は自分が坐っているところを指で示しました。女の子はまたこくりと頷きました。私はどういうわけだかその子の生真面目な反応が可笑おかしくなってきて、小さく声を出して笑ってしまったのです。すると女の子も笑ったんです。相性の良さというのは何でもない一瞬で分かるときがあるものですよね。そのときもその子の笑い顔を見て、私はいっぺんに親近感を覚えました。私は言っていました。

「じゃあ、いっしょに寝ころがろうよ」

 ── おや、今そちらの男性のかたが笑われましたが── はい、本当にそうですよね。いっしょに寝ころがろうよ、とはずいぶん大胆な物言いです。ですが、そのときの私には、そんなふうには思わなかったんです。ごく自然にそう言っていたのです。私は女の子と気軽に話せるようなタイプではありませんでした。いま考えましても不思議です。

 女の子は砂地の上を近づいてきました。白い運動靴に太陽が反射しました。光の粒子が一歩ごとに飛び跳ねました。

 あらためてよく見ると、きれいな子なんです。華やかな顔立ちというのではないのですが── 小さなころ遊んだ公園へ訪れたような── 胸にかすかな傷みが走る美しさなんです。眉のかたちが哀しそうで、目のかがやきはそれでいて強いのです。

 彼女は服の下に、もう水着を着ていました。するするとシャツとスラックスを脱いでいったんです。私は目を丸くしてそれを見ていました。下がスカート状になったワンピース式の水着です。当時の流行はやりだったのでしょうね。色は紺でした。彼女はカバンをあけてシートを出し、私のすぐ横にひろげました。

 最初にも言いましたが、この話は初めて人さまに話すのですが── 話してみると何だかありえない話にも聞こえますね。だけど、そのときはそうは思いませんでした。展開に驚いてはいましたが、同時にごく自然なことのようにも思えたんです。もちろんまだ異性と交際したこともない十六歳の男の子です。体がふわふわしていました。手を伸ばせばすぐ届くところに、水着を付けただけの女の子が寝ているわけですからね。それでも、こうなるのが当たり前のような気もしていたのです。

 その子のほの甘い体臭もときおり風が運んできました。汗をにじませた肌を太陽が焦がす、何とも言えないいい匂いです。ひなたに生えた若草の匂いに似ているような気もしました。

 いろんな話をしました。彼女も私と同じように本が好きでした。いえ、私など足もとにも及ばない読書家だったのです。独歩もワーズワースも立原道造も知っていました。谷崎を読み、芥川を読み、太宰治は全作読んだと言っていました。太宰が自死したのがまだ七年前という時代です。ゲーテを読み、リルケを読み、ドストエフスキーも手に入るだけ読んだそうです。ダンテの「神曲」を三回読んだと言われたときは、あっけにとられてぽかんと口をあけてしまいました。『地獄編』が好きだったのだが『天国編』の良さがやっと分かってきたと言われましても相づちの打ちようもありません。今回芥川賞を受賞した「白い人」をどう思うかとも聞かれたのですが、私はまだ「白い人」を読んでいませんでした。彼女は、あなたの本の好みだとシュティフターなんかも意外と気に入るかもしれないと言ってくすくす笑うのですが、シュティフターなど名前を聞いたこともありませんでした。なんのことやら分からぬまま、私もいっしょになって笑いました。

 不思議と嫌みな感じは受けませんでしたね。彼女もそのとき十六歳だったんです。十六年間ずっと本だけ読んで暮らしてきたのではないかと疑いたくなりましたが、嫌な気にはなりませんでした。彼女にとって本を読むことはごく当たり前のことなのだろうという気がしたのです。そうしないことには日々をうまく乗り切ることができなかったのではないか、とも。

「この川原にはよく来るの?」と私は聞いてみました。驚いたことに、彼女は週に二、三回はこの場所に来ていると言うのです。私もここを見つけた八月の始めから週に二、三回は来ていたんです。その日は八月の最後の週でした。今まで偶然、かち合わなかったんですね。うまく代わる代わるここを使っていたことになるのです。

 私たちは並んで寝転がったまま、話をしました。二人とも空へ顔を向けていました。声だけが青空へ昇っていくような感じです。ひとつはそれも話しやすかった要因なのかもしれませんね。女の子の声は細く、時どきふるえ気味になり、神経質な感じはありましたが、性格の温かさも感じ取れました。声が、青い空を背景にしてしばらく浮かび、それから遠いところへゆっくりと吸い込まれていくのです。胸がしぼられるような切なさが走り、私は目を閉じてその痛みに堪えなければなりませんでした。

 あお向けが暑くなってくると、二人でうつ伏せになりました。どういうわけだかあお向けのときより幾種類もの水音が縺れあって聞こえてきます。その音に自分の心臓の音がかさなりました。十六歳の、若い心臓の鼓動です。

 すぐとなりの同い年の異性は、重ね合わせた手の甲の上に自らの頬をのせていました。汗をいっぱい伝わせた顔は、下まぶたのあたりがうっすらと上気し、目が細められ、微笑わらっているような表情になっていました。なめらかな腕も汗で濡れています。肌の肌理きめに細かな光の粒が入り込んで、前腕から肘を曲がって肩先のほうへと白い光のすじを描いていました。女の子のわずかな体勢の変化で、その線がきらめき動きます。宝石の角度を変えるみたいに。そのきらめきに目をやっていると、私は息苦しさを覚えました。

 

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 「YES」⑤ へ つづく

 

 

 

 

 




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