怪談「きっかけ」③

 

 ── ダムに空いた穴からは大量の水が噴き出している。低速度で弧を描き、途中からは怖いほどの速さで真っ白く落ちていく。その轟音を聞きながら長い石段をのぼる。陽射しが首の後ろをじりじりと焼く。最後の石段をのぼりきると、深林に挟まれた奥行きの深い場所に出る。川上からの流れはゆるやかになり、扇のかたちの浅い池となってあたりに広がっている。水が複雑な動きをつづけているのが水面の模様でわかる。地面から1メートルほどの高さに木製の遊歩道が組んである。横幅はそれほどない。人と人がやっとすれ違えるくらい。行き止まりにある石積みダムまで曲がりくねりながら延びている。屋根のないあずまやとでも言うべきものが、中ほどにひとつ、奥にひとつある。木のテーブルと木のベンチが配されている。手つかずの陽光が明るい秘密のように射している。類似した場所をちょっと思い浮かべられないほど── それでいて記憶のなかにある懐かしい風景をのぞき込んでいるような気にもさせる── なんとも言えない空間なのだという。── 

「木のテーブルについて、ぼうっとしてるだけのこともあるし、小説を読むこともある。まぁ、たいがいはセリフの練習をしてた。弁当と、ペットボトルを何本もリュックに詰めてって半日いる。風が吹くとたまらなく気持ちよかった。汗がさあっと乾いてった。聞こえるものと言えば石積みダムからの水音と、セミの声。潮騒みたいな葉々の音くらいだ。風は水面をキラつかせながらどこかへ向かって吹き過ぎていった。

 俺がこの場所にいることを誰も知らないんだと思うと、自分が透明になっていくような安らぎをおぼえた。透きとおっていくと同時に、自らのなかにある何かが鮮明になっていくような気もするんだよ」

 私は頭を振ってやった。「変わってる」。だけど、河原の気持ちがわからないわけでもなかった。

 そう言えば、彼は勤めていたころよく日焼けをしていた。テレアポの仕事でどうしてこんなにいい色をしているんだと思っていた記憶が不意によみがえった。そんなところへ行っていたのか。

「その娘と会ったのも夏だった」

 河原の声がつづいた。「八月だよ。八月の終わりごろだ。俺の坐ってるあずまやからは、山に囲まれた街がまぼろしみたいに見下ろせた。空は天頂へ向かうほど青みを増してた。雲が溶けいるような感じでそこに浮かんでた。よく晴れていたけど、夏の終わりを意識させる空でもあった。

 その日俺は、こんどの公演でやるモノローグを練習してたんだ。一人で3分ちかくしゃべる長ゼリフだ。ひどいセリフだったような気もするんだけど、まぁ、見せ場は見せ場だ。小型のラジカセに録音しては聞き返し、ずっと練習してた。

 気がついたときには、その女の子が視界に入ってた。俺のいるあずまやから17、8メートル前方。木立ちのあいだで、ノー・スリーブの赤いワンピースが動いてるのが見えるんだ。顔がこちらを向いてる。表情まではわからない。全体の雰囲気からして、二十歳にはなってないって感じだ。

 手に本を持ってるのが見てとれた。

 こんなところまで一人で来たのかよって呆れた。危ないなぁって思った。変な男がいて襲ってきたら大変だぜ。叫ぼうが何しようが誰も助けになんか来ないからな。

 早く帰らないかなぁとも思った。気が散るんだよ。大きな声でセリフをしゃべってたしな。聞こえたら恥ずかしい。

 でもその子は、木立ちから少し出たり、またサッ、と戻ったりしてるんだ。明らかにこちらをうかがってる。だんだんイライラしてきた。ほっときゃいいんだけど、人なんか来ないって思い込んでただけに── 実際、今まで誰一人として来なかっただけに── なんだか、俺だけの場所へズカズカ上がり込まれたみたいな気がしてさ。まぁ、勝手な話なんだけど── 。

 女の子は帰らない。姿が見えなくなったなって思うと、林のなかで赤いワンピースがちらちら動くんだ。

 俺はもう放っておくことにした。またモノローグの練習を始めた。ラジカセの録音ボタンも押した。セリフをしゃべりだすと没頭するんだよ。その子のことも忘れた。10分ちかくは稽古してたと思う。

 気がついたら女の子はとなりに坐ってた」

「となりに坐ってた?」、私は顔を上げた。聞き違えたのかと思った。

「右どなりだ」と河原は答えた。「曲げてた肘を伸ばしただけで届く近さだ」

 私は早口になって言った。「だけどその子は17、8メートル先にいたんだろう? となりへ来るまでのあいだに気がつかなかったのか?」

「さっきも言ったけど、アスレチックもどきの遊歩道を通らないと俺のいるところまでは来られないんだよ。道が目の前でいちど左へ大きくふくらんでからあずまやの右端とつながってる。だから、歩いて来ればかならず視野に入るんだ」

「でも、となりに坐ってたんだろ?」

「俺のほうへ顔を向けてた」

「どうやって、来たんだ?」

「教えてほしい」

「教えてほしい?」

「彼女は、まちがいなく生き身の人間ではなかったよ」

 自分の顎の筋肉が力を失うのがわかった。生き身の人間ではなかった? 口を半開きにして河原を見た。河原も見返してくる。私は笑おうと努めながら、顔の前で手をひらひらとさせた。「おい、おい、おい」

 河原は目をそらさなかった。しばらくしてから、私に横顔を向けて正面を見る。喫茶店に流れる、現実から浮かび離れていくようなシューマンの旋律も相まって、河原がこのままどこかへ消えてしまうような錯覚を、一瞬おぼえた。彼は前方を向いたまま、つづける。

「俺はそれまで、オカルトめいたことをいっさい信じてなかった。幽霊どころか超能力、金縛り、なんてものさえ眉唾物だと思ってた。だけど、自分の目ではっきり見てしまったら、信じるも信じないもなかった」

「やっぱり、青白いのか? 半分、透けてるとか」、なかば笑いながら、とりあえず聞いてみた。馬鹿馬鹿しい。おばけ、なんているわけがないだろう! だけど── とも思う。河原が私をかつぐわけもない。そんな子供じみたことをしてなんになる? それにこいつの顔は真剣そのものだ。嘘をついてる顔じゃない。なんだか気味が悪くなってきた。

「青白くもないし、透けてもいない」、河原は抑揚もなく言い、またこちらを向いた。声に不思議な落ちつきが聞き取れた。「もっとほかの場所で、たとえば街なかの公園の、近くのベンチにでも坐ってたんなら、それが幽霊だなんて気がつかなかったと思う。そう考えたら、俺たちは死んだ人間としょっちゅう擦れちがってるのかもしれん」

 あっさりと言い切るその口調に鳥肌が立った。よりどころがなくなってしまったような心許なさを押さえ込み、声を太くした。

「幻覚を見たんじゃないのか? ふつうはそう考えるだろ」

「そうだな」

「自分の頭がどうにかなってしまったんじゃないかと疑うとかさ」

「ああ」

「そうは、思わなかったのか?」

「幻覚じゃなかった、とは言い切れないよ、もちろん。── 俺たちの今いるココが── 」と河原は人差し指でテーブルを示した。切れ長の目が鋭くなる。「ただひとつの現実だ、なんて誰にも証明できないように」

 河原は私の顔をじっと見た。私も河原の目をにらみ返した。たがいに見つめ合ったまま、しばらく時間だけが流れた。

 

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 「きっかけ」 ④ へ つづく

 

 

 

 




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