Blue あなたとわたしの本 196
「Blue あなたとわたしの本」というブログを約一年半、僕はやっているんですけどね、「『Blue〜』は綺麗ごとばかりだ」というコメントをいただくことがあります。
はい、ですが、人の心を打ち砕くような事実を書くよりも、ほんの少しだけ〝きれいなほう〟へ傾けた言葉を綴りたい、と僕はけっこう初めのころから公言しているんです。「綺麗ごと」ってそんなに悪いことかなぁ? と考えてしまうことがあります。お声に気を悪くするとか、そういうことではなく。
広辞苑の定義を見ると、
物事の実態はそのままで、表面だけをとりつくろうこと。
とありますね。
この場合の「物事の実態」というのは、何か良からぬ「実態」があって、それには手をつけずに表面だけクリーンに見せる、というニュアンスですね。そっかぁ。この定義を読むと、やっぱり「綺麗ごと」っていうのは良くないなぁ(笑)。僕の思ってた「綺麗ごと」の意味合いとは微妙に違いますね。やっぱりその都度、辞書は引かなアカンということです。
明鏡国語辞典を開くと、
見せかけの体裁を整えただけで、実質の伴わない事柄
とあります。この定義だともっとアカンやないですか。
「Blue〜」はそうじゃないですけどね。見せかけの体裁を整えただけで、実質の伴わない事柄、ではない。
「Blue あなたとわたしの本」では、人の心を打ち砕くような夢も希望もないことを書くのではなく、ほんの少しだけきれいなほうへ傾けはするが、本心のこもった文章を提出したい、のです。
本心のこもった文章、です。でも 事実そのもの や、あるいは 思ったことをそのまま口に出す のが自然なことであり、正直な人間だ、とは 僕は考えていないようです。素直で美しいとも思わない。
〝正直な人間〟の〝素直〟な言動に、どれだけ人の心が今まで傷つけられてきたか、ということです。時に取り返しがつかないくらい壊されてきたか、ということです。
先日もこんなことがありました。
大通りと交差するやや狭い道。そこを歩いて渡ろうとしていた老年の男性に、本通りから入ってきた車が罵声を浴びせました。ここには書きたくもないほどの痛罵です。
その老齢の男性の心にも、そこに居合わせた僕を含めた人間の心にも、多かれ少なかれ傷を残したと思います。
ああいった言葉は「綺麗ごと」ではないでしょう。表面さえも取り繕ってはいませんから。怒りに任せて本音をぶつけただけです。そんなものを人間らしい行為だと僕は思わない。正直で素直な言動だからそれで良し、とも思わない。
危ないじゃないか! と苛立ったとしてもその感情をグッと抑え、表面だけでも取り繕い、「おじいちゃん、周りをよく見てから渡るんだよ」とでも声をかけるほうがマシだと思う。「綺麗ごと」のほうが何倍もマシだと。そちらのほうがずっと人間らしいとさえ思うのです。
僕はこれからも本心のこもった文章を(そういう意味では綺麗ごとともやはり違う)、かつ、ほんの少しだけきれいなほうへ傾けた言葉を──文章技術も使い、推敲に推敲を重ね── 発信していきたいと考えています。
Kei Tamura さんの素敵な写真を添えて。
それが、 「Blue あなたとわたしの本」なんじゃないかなぁ。
はい、 良くも、悪くも。