note で「1パーセントの深い哀しみ」の続編

 

ブラッシュアップを施した最新版(7月23日更新)です。
ストーリーは変わっていません。

 

 

 note で「1パーセントの深い哀しみ」の続編を販売します。

 それに先立ち「1パーセント〜」のなかにありました小説内小説(散文詩)を、明日から当サイトで公開します。火、水、木、と一編ずつ(水、のみ二編)。夏なので怪談色の強いものを選びました。

「1パーセント〜」を購入してくださった方はすでにお読みかと思いますので、金曜日には書き下ろしを投稿します。

「1パーセントの深い哀しみ」をお読みいただきました皆さま、ありがとうございました。楽しんでいただけたのなら嬉しいのですが。

 当サイトへお越しくださいました全ての方々にも心から感謝しております。いつもありがとうございます。

 

 

 続編のタイトルは、

 

「海を見上げる、その暗く温かな場所で」

 

 

 8月上旬発売予定です。

 

 明日またお目にかかります。

 

 

 

 この記事でも小説内小説「安息の地」をお読みいただけます。

 

 

 

 

 「1パーセントの深い哀しみ」にいただきましたお声の一部です。ありがとうございました。

 

少女時代、自分の感じていた世界、心の声、重なって共感(笑)。親との関係の展開から物語が解けていって。ポール・デルヴォーやルネ・マグリットの絵を思わせる幻想的な風景描写…。
 lucciora 様より

 
 

「1パーセントの深い哀しみ」を
また読みました。
どうしてこんなに
不思議で美しく
そして、どこか透明感のある
世界が書けるのかなあ、と思いました。
普通なら読めない場面もなぜか美しく感じます。
 スフレ様 より
 
 
 
1パーセントの深い哀しみの意味が分かったとき、泣けてきた。冬子の無意識がそのことを悟らすためにエレベーターに誘い込んだのだと思う。
 リョウ 様 より
 
 
 
とても美しい世界ですね。
一日中バスタブにつかって、空と本と過ごし、最後は夜空に星とともに浮く感覚に酔う。
たった一人きりで。そして、お昼寝もしたいだけ。しかも、何一つ先のことを思い煩うこともなく。
こんな幸せな生活の描写を、読んだことがありません。
壁にかかった絵や、彼女の書く小説に描かれたものが象徴すること……
彼女は、その怒りと悲しみを超えて、元の世界へと戻ってしまう。
これはハッピーエンドなのですよね。
でも、私は寂しいです。私もまたいつの間にか、自分のエレベーターに乗って一人上昇を続けているので。
一人が幸せだと思いながらなぜか、彼女という仲間がいなくなってしまったことが寂しくてならないのです。
 木野 永吏 様 より
 
 
 
 特異な小説。成立してはいる。なんなんだこれはw  

  Y.T 様 より

 
 
 
「過剰なサービス精神と、他者を傷つけることを極度に恐れる性格」で「なま身の人間と接すると、いつも激しい疲れをおぼえ」「意識や感情を持ったものがわずらわし(い)」冬子(まるで「人間失格」の大庭葉蔵のよう)。私も、この現実の世界の諸々の事を他人以上にわずらわしく感じるタイプですので、冬子がエレベーターの中の生活を理想的なものだと思ったのはよくわかります。「1パーセントの深い哀しみ」において、もちろんそれが単なる逃避に終わるわけはなく、どのように現実へと帰還するのかという癒しの過程がダイナミックに描かれていて凄かった。

冬子に「他人の感情の細かな波立ちでもその傷口から流れこ」ませたり、「不幸せそうな人を見ると、自分にもなにかしら責任の一端があるように思えて落ち着かなく」させたりするのは、彼女が「海にもぐ」れるからですよね。父親が言うように「海」は個人的でもあるが普遍的でもあるものですから、全ての人の苦しみ、悲しみの漂う「海」にもぐれる者は必然的に他人の痛みに感応せざるを得ない。繊細な人間というのは、苦しみを受け止めざるを得ないある意味での強さの持ち主なんですよね。
そんな冬子が「海」から持ち帰った作品は、彼女自身も気づいていなかったのでしょうが、彼女の癒しへの可能性を秘めた作品でもありました。「安息の地」や「青い浴場」を経験する事は冬子にとって苦痛であったにせよ、それは経なければならないことです。ところで「海」は普遍的であっても、もぐる者は個人でありますから、そこから持ち帰ってくるものは、普遍的でもあるが、もぐった者の個人的色彩を帯びたものにもなるのでしょう。もし父親が言うように冬子が「もっともっと深くもぐ」るのなら、そこから持ち帰る物語は、冬子だけの癒しにとどまらず万人の癒しへの可能性を秘めるはずです。心理学者の河合隼雄の言うように、個を極めると普遍になるんですね。

興味深いのは彼女の父親らしき人物の癒しの物語をも、冬子が持ち帰っていることです。しかし「海」の普遍性、超時空性、主客合一、混沌、などを考えるならば、当然と言えば当然なのですが。そもそも冬子が対話した父親は、父親自身の人格を持って冬子に語りかけていたのでしょうか? それとも、この対話もまた「海」から持ち帰った冬子の物語を彼女自身が経験しているにすぎないのでしょうか? 終盤の、男と裸の女との闇の中の落下の場面を読むと、父親の独立した人格が描かれているようではあります。ですがその辺をあれこれ推し量るのはもうやめにしましょう。それは例えば心の深い次元にまで響いてくるような経験をした者にとっては、それは現実か?という問いがまるっきり無意味であるようなものです。ですからラストの「鳥」への言及が、僕にとって謎であることは、むしろ「1パーセントの深い哀しみ」を締めくくるのにふさわしいものでしょう。極めて象徴的で肯定的であることは感じられるにせよ、やはり謎めいてます。このラストの3行は賛否が分かれるところでしょうね。
その「鳥」だけではなく、今回の作品には色々な象徴が散りばめられていますよね。列挙するには豊富過ぎるので割愛しますが、わかりやすいものだけでも挙げると、礼拝堂の上昇はやはり祈りの成就を感じさせます。天へと落ちる水は冬子の全存在から溢れてくる涙のようでもあります。それが天へと落ちる(昇る)のですからね。僕にとっては究極の浄化のイメージですよ。冬子を襲う人間たちの中に白衣を着た者がいて結局その者たちの顔が冬子の顔をしていたというのは、冬子の癒しへの強烈な願いと、だが癒されること(ある状態から、より高次の状態への移行)への心理的な抵抗を感じさせます。とにかくこの作品における幻想的、視覚的イメージの絢爛たるや、素晴らしい。

さて「彼女の、意思によって」「もといた場所へ」と帰る冬子。より深くもぐり、「すべての人のものでもある物語」を持ち帰ることになるでしょう。そのような作品を今後も期待しつつ、ですが、たまには深くもぐらずとも著せるエンターテイメントのようなものでも僕は大歓迎です。なんせ、いつもいつも深くもぐっていたら息が続かない(太宰のように、もぐったまま帰ってこないのもどうかと。彼は海ではなく、川でしたけどね)。父親の言うように、成熟ということはあり得ぬとしてもその可能性だけを持った我々は、だからこそ生きなければならぬのですから(僕、太宰は大好きなんですが)。
 FREDSUN 様 より
 
 
 
私は何を読んだのですか?
頭から離れません
冬子の事が忘れられない
 セーラ様 より

 

f:id:btomotomo:20151226120300j:plain

 

 

 

note.mu

 

 

 

 




にほんブログ村 ポエムブログ 写真詩へ
にほんブログ村




写真詩 ブログランキングへ




follow us in feedly




「Blue あなたとわたしの本」は毎日更新から不定期更新に切り替わりました。読者登録をご検討いただければ幸いです。ブックマーク、フェイスブック等でのシェアも大歓迎です。いつもありがとうございます。