映画「PERFECT DAYS」鑑賞記 ──人間にとっての幸福とは何か──

Blue あなたとわたしの本 258

 

 本稿は先月投稿しました「『PERFECT DAYS』を観てきた。頭から離れなくなる映画だった。vol.1 vol.2 vol.3 」を1本にまとめ、若干の加筆修正を加えたものです。

 

 

映画「PERFECT DAYS」をもう観られただろうか。あなたがどういった感想を抱くのか、とても興味がある。もしまだ観られていなかったら──ネタバレもこれから書いていくので──鑑賞後にこの文章を読んでもらってもいいのかもしれない。 真っ白な状態で映画を観てみたいとお考えなら。

役所広司演じる平山さんの最後のあのシーン。 車中、正面からの大写し。その変化する表情の演技をどう解釈するかによって、観た人の持っている価値観・人生観が浮き彫りになるようだ。 
人によっては、「 平山は自らの生活をやはりみじめだと思っていた。だからラストで涙するのだ」と捉えるらしい。何人かからそういった感想を聞いた。私はそのようには受け取れなかった。
もちろん映画や小説の解釈は人それぞれだし正解はない(年齢や境遇によっても変わるだろう。この映画はとくにそうだと思う)。製作陣や作者にはっきりした意図があったとしてもそれが唯一の答えではない。どう受け取ってもいいのだ。だが、「平山さんが目に涙をためた理由はそうではない」と言い返したくなる自分がいた。平山さんがまるで実在の人物であるかのように。自分の近しい人でもあるかのように。 

この映画の主人公である平山は公衆トイレの清掃員をしている。古びたアパートでの一人暮らしだ。清掃は手を抜かず、黙々と仕事をこなす。道具まで自分でこしらえている。夕方にはアパートに帰ってくる。銭湯へ行き、地下街にある居酒屋で食事をとる。寝落ちするまで布団で古本を読む。そしてまた同じルーティンの朝を迎えるのだ。
観る人によっては、この主人公にイライラするようだ。上昇志向もなく、現実逃避をしている人物に見えるらしい。私の観た上映回でも何人かが途中で席を立った。そのまま戻ってこなかった。映画館ではあまり目にしたことのない光景だった。
「平山は家庭も持たず、親の面倒もみていない。人生のすべてから逃げつづけた成れの果てなのだ」といった意味のコメントも読んだ。
親と向き合っていない、という部分は私もうなずく。だが、それにもきっと事情があるのだ。平山にとっても心の傷となっているのだろう。この映画は説明されない部分が多い。回想シーンも用いられない。伏線の回収もなければ起承転結もない。ゆえに実人生と似ている。平山から目が離せなくなる。鑑賞後も頭から離れなくなる。

夜、木造アパートの前。妹であるケイコと再会するシーン。ケイコは運転手付きの高級車でくる。「こんなとこ住んでるのね」と彼女は言う。「ほんとにトイレ掃除してんの?」とも。彼女にとってトイレ掃除など誰かがやってくれるものだったのかもしれない。平山の実家は裕福だったのだろう。 大会社の跡取りだったのかもしれない。あるいは平山も一流企業に勤めていた時期があったのかもしれない。 たぶん彼は、魅力を感じなかったのだ。自分はそういうタイプの人間ではない、と自覚したのだろう。 社会的地位の〝高い低い〟より、 何よりも〝自分自身〟でありたかったのではないか。〝自分にとっての幸福とは何か〟を考えてしまう資質を持っていたのだろう。
「それは自分の道ではありません」とはっきり言うのは勇気がいることでもある。普通はそれができないのだ。親や親族、世間の目を気にして。自分自身の本性をこそ、深く見つめるべきなのに。 
若い同僚・タカシが急に仕事を辞め、タカシの受け持ちだったトイレまで清掃してまわった夜、 ガラケーをにぎった平山は会社にこう言い放つ。「毎日は無理だからね」。そう、無理なものは無理だと言える人なのだということがこのシーンでしめされる。夕方早くにはアパートに戻り、規則正しいルーティンを守りたいのだな、とも汲み取れる。残業手当などよりそちらのほうがきっと大切なのだ。平山の過去には、何か大きな出来事があった。たぶん父親との確執が。妹・ケイコの話にあった、ホームにいる父親は「もう昔みたいじゃないから」というセリフからもうかがえる。「俺には無理だからね」、 平山は、過去にもきっと父親に断言したのだ。
自分はそういったことがつとまる人間ではありません、つとまりたいとも思いません、と見定めること。それを受け入れること。自らを許すこと。そして〝なぜかしら惹かれる〟ことに正直になってみる。それが生きる、という行為への誠実さにもつながる。だが、そういった真摯さは他人には理解されにくいものだ。わがままに見えたり、変人に見えたり、ときには憎まれることもあるかもしれない。
平山さんの数少ないセリフのなかにこんなものがあった。「この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
平山と妹の世界も「 つながっていない世界」だ。妹・ケイコは実家の裕福な環境に違和感をおぼえないタイプなのだろう。 平山の姪っ子であるニコは居心地の悪さを感じているようだ。 母親とも衝突し、伯父である平山のアパートへ転がりこむ。平山も、昔の自分とニコがかさなって見えたかもしれない。血もつながっている。愛おしく思わないわけがない。だが、いつまでも自分と居てはいけないという分別も当然ある。彼は妹に電話をかけ、迎えに来させる。妹のスマートフォンの番号も知らないだろうから、平山は実家にかけたはずだ。それで妹が出たとしたら、やはり妹が家業を継いだものと受け取れる。平山はこのとき自らの携帯電話を使わなかった。銭湯の公衆電話からかけていた。こちらの履歴を残す気はない。「つながっているように見えてもつながっていない世界」。その断絶は、深い。
平山はアパートの前で妹を抱擁する。ケイコもまた涙ぐむ。もう会うことはないであろうことを共に悟っているかのような場面だ。

その後に起こる大きな出来事といえば、やはりこれだ。平山が恋心をいだいているであろうママのいる小料理屋(開店の少しまえの時間だろう)に行ったとき、見知らぬ男性とママが抱き合っているのをドアのすき間から見てしまう。平山は逃げるように走り去る。河川敷で缶ビールをあおる。ママと抱き合っていた男性がそこへ来るのだ。追いかけてきたものらしい。その男は元夫だった。難病におかされていて、余命いくばくもないであろうことが知れる。「あいつをよろしくお願いします」と男は言う。お願いします、と繰りかえす。
この場面は、リアリティがないように思える人もいたかもしれない。だが 死を覚悟したとき、人はこれまでの人生で出会った大切な人たちに、もういちど会いに行きたくなるときがある。あやまりたくなるときが。ありがとうを伝えたくなるときが。その人たちが幸せでいてほしいと願うときが。心が透き通ってしまうときが、あるのだ。元夫・友山は、そういう心境だったのではないか。 平山が逃げ去ったあと、「あの人は平山さんと言って──」という会話も当然ママとなされたはずだ。その口調、表情で、元妻の気持ちも友山は察したはず。この世的な自我がなかば浄化されているであろう友山が、気がつけば平山を追いかけていた、──不思議ではないように思う。
そして影踏みのシーンがくる。
友山は、「影ってかさねると濃くなるんですかね」と不思議なことを言う。「わからないことだらけだな。けっきょくわからないまま終わっちゃうんだなぁ」と。
「やってみましょうか」と平山は答える。
街灯のまえに立ち、二人はじっさいに影と影とをかさねる。「変わらないかなぁ」と友山はさびしげにつぶやく。平山は、「濃くなってないですか。なってるんじゃないですか」と返す。「濃くなんなきゃおかしいですよ。なんにも変わんないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と平山は言い張るのだ。
私はこのシーンで、あのセリフがフラッシュバックした。「この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」。平山はこういった諦観をもった男だ。だが、何かの拍子に、つながっていない世界と世界がかさなったとき、少しぐらい色も濃くならなければ、木漏れ日のように心もゆらがなければ──なんにも変わらないなんて──それではあまりにも寂しすぎるじゃないか、そんな平山の痛切な声を、この場面で聞いた気がする。
平山さんは決して人間嫌いでも、自閉した人物でもない。閉じた人間は駅と直結した地下街の居酒屋などで夕食をとらない。改札が見え、すぐうしろを人が慌ただしく行き交うような場所では。店主が毎回 話しかけてくるような古本屋にも行かない。現像された写真を受け取るためとはいえ、カメラ屋にも通わない。店を出るとき主人とかわす「ああ」「うん」という挨拶ともつかぬやりとりのなんとすてきなことか。あるいは公衆トイレに残された謎のメモ。誰とも知れない人物とのつかの間交流。「ありがとう」と記されたその紙を、平山さんは大事そうにポケットにしまった。
影と影がかさなったなら──ヒビ割れた心と心が合わさったなら──平山さんはその傷口から奇跡的に差しこむあたたかな光をみいだしたい人なのだ。 影踏みのシーンに、私はそんなことを感じた。

あと、これは本筋とは離れた話題かもしれないが、この影踏みのシーンは〝降りてきた〟アイディアではないかと個人的には思った。 つまり、ヴィム・ ヴェンダース監督や、共同脚本の高崎卓馬氏が〝頭で〟考えたシーンではないのではないか、と。どちらかの右脳へ直接舞い降りてきた場面だったのではないかと感じたのだ。作品を作るとき、そういった幸運なことがまれに起こる。思考よりも先にそのシーンが展開される、その光景が〝見えて〟しまう。 何だろうこれは? とインスピレーションを受け取った人間はあとからその意味するところを考える。この情景はなんの隠喩なのだろうか、と。見当がつかないとそのアイディアを採用するのをやめてしまうケースもでてくる。意味がわからないし、ちょっと唐突すぎるかもしれないな、といった理由で。
──そのシーンを削ってはいけないのだ。たとえ作者にも意図するところを把握できなくとも。〝作品そのものが〟求めている情景なら。「なるほどこのシーンはだから必要だったのだな」と作者本人が数年後、数十年後に気づき、理解することさえままある。フィクション創造の面白みではないだろうか。 創作とは、〝何者かとの共同作業〟なのだ。
この影踏みのシーンに、作品自体が働きかけたインパルスを私は感じた。この場面があることによって映画が膨らみを増したと思う。豊かさを増した。
当初からあったアイディアなのか〝降りてきた〟ものなのか、もちろん私の知るところではない。なんにせよ、平山と友山が影と影とをかさねるシーン、二人の無垢なやりとり、そしてそれにつづく影踏みのシーンが、私はとても好きだ。

そして翌朝のラストシーンがくる。
清掃するトイレの待つ、渋谷区へ向かう車中の平山のアップ。なぜ平山さんは目に涙をためるのだろうか。泣き笑いのような表情になるのか。感情がせわしなく行き来しているように見えるのだろう。
本当に、自らの生活をみじめだと感じているからだろうか。私はそのようには思えなかった。平山の日常で直前に起こったことといえば、姪のニコや、妹・ケイコとの再会だ。そして、小料理屋のママの元夫・友山との出会い。それにより、平常は「いま・ここ」のもたらす静かな幸福を感じているであろう平山の心は過去や未来を行き来しだす。
過去にあった実家との揉めごと。浮かび上がるいくつかの場面。父親との激しい応酬。受けた心の傷。その父親もいまはホームにいるという。親を100パーセント憎める子どもなどいない。愛憎相半ばするから苦しい。それは涙もにじむだろう。
姪っ子のニコとの再会。二人で隅田川を見た、自転車で桜橋を渡った、いままで経験したことのない感情。「海、行く?」「こんどね」と平山は答える。二人で歌った「こんどはこんど、いまはいま」。そのこんどは、たぶん来ない。平山はそのことも承知している。早朝の高速を走りながらそれは涙もにじむだろう。あのときの「いま」の、なんというまぶしさよ。それは涙もにじむだろう。
未来はどうか。元夫である友山の言動から察すると、今後ママとの関係は今よりも親密になるかもしれない。唇もしぜんと笑みのかたちを作るだろう。だが元夫は、遠からずこの世を去るのだ。つかの間でも心をかさね合わせた友山が。笑んだ唇はまた苦渋のかたちに歪むだろう。
妹のケイコが娘を引き取りにきた夜、平山はニコに言った、「いつでも遊びに来ていいから」。パトリシア・ハイスミスの小説をニコは借りていった。彼女も本が好きなのかもしれない。ひょっとしたら、また会えるのかもしれない。自転車でいっしょに走れるかもしれない。海だって、行けるのかもしれない。行ってもいいのかもしれない。笑みがまたたわいもなく浮かんでくるだろう。
朝日がのぼる高速道路を走っている、「いま」のもつ純粋な喜び。それは理由のない喜びだ。慣れ親しんだそんな「いま・ここ」へも心は舞い戻るだろう。
過去・未来・いま──そういった、それらがおよぼす、目まぐるしい感情の変転があの表情ではなかったか。
平山は、自分の生活はみじめだ、などという心の段階ではないように思う。かといって悟りきった聖者でもまたないだろう。意識の水面下には自覚し得ない悔しさ、哀しさもあるのかもしれない。年相応の老いた体を持つ、生身の人間なのだから。 心がゆれうごいて当然なのだ。 泣き笑いじみた表情になるときだってあるのだ。 
平山さんは、何よりも〝自分自身であること〟を選びとった人間なのだと思う。どこの誰がきめたかもわからない「こうであったほうが価値がある」よりも自らにとっての心地よさを選んだのだ。好きなものだけに囲まれて暮らしているのだ。偽りのない自分を生きている。これ以上の豊かさがあるだろうか。
「この男の行き着く先は孤独死だ」という声もあるようだが、覚悟しているのではないか。そうであるからこそ、「いま・ここ」へ逃れた、とも言えるのかもしれない。瞬間・瞬間には過去や未来はないから。過去や未来がないということは怒りや恐怖がない、ということだ。
人から距離を置き、「いま・ここ」に安住するとき、代わりに歩み寄ってくるものがある。それが木々であり、陽の光であり、木漏れ日だ。それらは一瞬一瞬にだけ存在する、つねに新鮮な美だ。自らにだけ見せてくれる奇跡の舞いだ。
生きてそれらと対峙している「いま・ここ」が切なく、愛おしい。心のなかで手を合わせたくなる。出どころがわからない感謝の想いも湧いてくる。
世間が言う、「こうでなければならない」から逸脱した人間だけが感じられる安堵がある。喜びがある。哀しみもある。強さがある。
平山さんの穏やかな表情のうしろには泣き笑いが幾重にも畳みこまれている。彼は最後にそういった感情を我われに見せてくれた。
私は思う。日々出会う 微笑んでいる人の顔のうしろにも、そういった哀しみや喜び、痛みが折り畳まれていることに気づける自分でありたいと。見える目をもちたいものだと、改めて思う。

語りたいことはまだまだあるのだが、このあたりでまとめてみたい。
映画のキャッチコピーでもある「こんなふうに 生きていけたなら」とはつまりはどういう意味か。
これは、社会常識や他人の目ではなく、〝自分にとっての幸福〟に素直に生きていけたらどんなにいいだろう、という意味合いだろう。
例えば、 神社の境内でいつも昼食をとっているオフィスレディ 。制服からすると受付嬢かもしれない。だがそうであるならば、彼女は明らかに向いていないだろう。つねに生気のない顔をしている。職場でも浮いているのではないか。皆とうまくやっているのであれば 神社で一人で食べたりはしない。 彼女はたぶん、仕事中は、気質とはちがう役柄を演じているのだ。だから極度に疲れる。自分が自分であることを自分に許せば、人は一瞬にして幸せになれるのに。 隣のベンチに坐る平山さんも、そのことを知っている。
タイトルの「パーフェクト デイズ」の意味はどうか。これも同じだ。自分の本性のままに日々を過ごせば、そこに「 パーフェクトデイズ」が現れる。 一瞬一瞬の「いま・ここ」がきらめく。ささやかな事象が喜びに変わる。色彩が鮮やかになり、立体感を増す。 世界との友好関係が深まる。
もちろんそうは言っても生きているかぎり心はゆれる、ゆれつづける。ラストシーンの平山さんのように。それもまた、だからこそ、命あるものはこんなにも愛おしい。ゆれてもいいのだ。誰もがみなゆれる。ものやわらかな表情のうしろに泣き笑いをおさめ込んで、今日をみな、懸命に生きている。

田中 泯さんが演じた踊るホームレスの私なりの解釈や、平山さんが買う缶コーヒーはなぜいつもカフェオレなのか?  作中に出てきた小説・音楽についての考察など──触れたいことはまだたくさんあるのだが、収まりがつかなくなるので割愛する。
私はこの映画を見ている2時間、絶えず感情がゆすぶられ、様ざまなことを考えた。もちろん心も打たれた。想像力を掻き立てられる素晴らしい作品だった。鑑賞して本当によかったと思う。

長い記事を書き終わってみれば、当ブログでいつも記していることと、主題も内容もたいしてちがっていないことにも気づいた。 映画評論めいた今回の文章も、『 Blue あなたとわたしの本』のナンバーシリーズに組みこんだ所以である。

 

 

 思っていたよりも長文になってしまいました。 最後までお読みくださり、ありがとうございます。「PERFECT DAYS」を観られたかたがいらっしゃいましたら、 ブックマークコメントでもコメント欄でもけっこうですので、自由にご感想をお書きください。「PERFECT DAYS」、本当に大好きな映画となりました。 
平山さんの部屋に遊びにいって、まずはじっくりと本棚の背表紙を見てみたいですよ。    

  智(とも)

 

 

 

btomotomo.hatenablog.com

 

 

「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.3〈完結〉

Blue あなたとわたしの本 257

 

 

そして翌朝のラストシーンがくる。
清掃するトイレの待つ、渋谷区へ向かう車中の平山のアップ。なぜ平山さんは目に涙をためるのだろうか。泣き笑いのような表情になるのか。感情がせわしなく行き来しているように見えるのだろう。
本当に、自らの生活をみじめだと感じているからだろうか。私はそのようには思えなかった。平山の日常で直前に起こったことといえば、姪のニコや、妹・ケイコとの再会だ。そして、小料理屋のママの元夫・友山との出会い。それにより、平常は「いま・ここ」のもたらす静かな幸福を感じているであろう平山の心は過去や未来を行き来しだす。
過去にあった実家との揉めごと。浮かび上がるいくつかの場面。父親との激しい応酬。受けた心の傷。その父親もいまはホームにいるという。親を100パーセント憎める子どもなどいない。愛憎相半ばするから苦しい。それは涙もにじむだろう。
姪っ子のニコとの再会。二人で隅田川を見た、自転車で桜橋を渡った、いままで経験したことのない感情。「海、行く?」「こんどね」と平山は答える。二人で歌った「こんどはこんど、いまはいま」。そのこんどは、たぶん来ない。平山はそのことも承知している。早朝の高速を走りながらそれは涙もにじむだろう。あのときの「いま」の、なんというまぶしさよ。それは涙もにじむだろう。
未来はどうか。元夫である友山の言動から察すると、今後ママとの関係は今よりも親密になるかもしれない。唇もしぜんと笑みのかたちを作るだろう。だが元夫は、遠からずこの世を去るのだ。つかの間でも心をかさね合わせた友山が。笑んだ唇はまた苦渋のかたちに歪むだろう。
妹のケイコが娘を引き取りにきた夜、平山はニコに言った、「いつでも遊びに来ていいから」。パトリシア・ハイスミスの小説をニコは借りていった。彼女も本が好きなのかもしれない。ひょっとしたら、また会えるのかもしれない。自転車でいっしょに走れるかもしれない。海だって、行けるのかもしれない。行ってもいいのかもしれない。笑みがまたたわいもなく浮かんでくるだろう。
朝日がのぼる高速道路を走っている、「いま」のもつ純粋な喜び。それは理由のない喜びだ。慣れ親しんだそんな「いま・ここ」へも心は舞い戻るだろう。
過去・未来・いま──そういった、それらがおよぼす、目まぐるしい感情の変転があの表情ではなかったか。
平山は、自分の生活はみじめだ、などという心の段階ではないように思う。かといって悟りきった聖者でもまたないだろう。意識の水面下には自覚し得ない悔しさ、哀しさもあるのかもしれない。年相応の老いた体を持つ、生身の人間なのだから。 心がゆれうごいて当然なのだ。 泣き笑いじみた表情になるときだってあるのだ。 
平山さんは、何よりも〝自分自身であること〟を選びとった人間なのだと思う。どこの誰がきめたかもわからない「こうであったほうが価値がある」よりも自らにとっての心地よさを選んだのだ。好きなものだけに囲まれて暮らしているのだ。偽りのない自分を生きている。これ以上の豊かさがあるだろうか。
「この男の行き着く先は孤独死だ」という声もあるようだが、覚悟しているのではないか。そうであるからこそ、「いま・ここ」へ逃れた、とも言えるのかもしれない。瞬間・瞬間には過去や未来はないから。過去や未来がないということは怒りや恐怖がない、ということだ。
人から距離を置き、「いま・ここ」に安住するとき、代わりに歩み寄ってくるものがある。それが木々であり、陽の光であり、木漏れ日だ。それらは一瞬一瞬にだけ存在する、つねに新鮮な美だ。自らにだけ見せてくれる奇跡の舞いだ。
生きてそれらと対峙している「いま・ここ」が切なく、愛おしい。心のなかで手を合わせたくなる。出どころがわからない感謝の想いも湧いてくる。
世間が言う、「こうでなければならない」から逸脱した人間だけが感じられる安堵がある。喜びがある。哀しみもある。強さがある。
平山さんの穏やかな表情のうしろには泣き笑いが幾重にも畳みこまれている。彼は最後にそういった感情を我われに見せてくれた。
私は思う。日々出会う 微笑んでいる人の顔のうしろにも、そういった哀しみや喜び、痛みが折り畳まれていることに気づける自分でありたいと。見える目をもちたいものだと、改めて思う。

語りたいことはまだまだあるのだが、このあたりでまとめてみたい。
映画のキャッチコピーでもある「こんなふうに 生きていけたなら」とはつまりはどういう意味か。
これは、社会常識や他人の目ではなく、〝自分にとっての幸福〟に素直に生きていけたらどんなにいいだろう、という意味合いだろう。
例えば、 神社の境内でいつも昼食をとっているオフィスレディ 。制服からすると受付嬢かもしれない。だがそうであるならば、彼女は明らかに向いていないだろう。つねに生気のない顔をしている。職場でも浮いているのではないか。皆とうまくやっているのであれば 神社で一人で食べたりはしない。 彼女はたぶん、仕事中は、気質とはちがう役柄を演じているのだ。だから極度に疲れる。自分が自分であることを自分に許せば、人は一瞬にして幸せになれるのに。 隣のベンチに坐る平山さんも、そのことを知っている。
タイトルの「パーフェクト デイズ」の意味はどうか。これも同じだ。自分の本性のままに日々を過ごせば、そこに「 パーフェクトデイズ」が現れる。 一瞬一瞬の「いま・ここ」がきらめく。ささやかな事象が喜びに変わる。色彩が鮮やかになり、立体感を増す。 世界との友好関係が深まる。
もちろんそうは言っても生きているかぎり心はゆれる、ゆれつづける。ラストシーンの平山さんのように。それもまた、だからこそ、命あるものはこんなにも愛おしい。ゆれてもいいのだ。誰もがみなゆれる。ものやわらかな表情のうしろに泣き笑いをおさめ込んで、今日をみな、懸命に生きている。

田中 泯さんが演じた踊るホームレスの私なりの解釈や、平山さんが買う缶コーヒーはなぜいつもカフェオレなのか?  作中に出てきた小説・音楽についての考察など──触れたいことはまだたくさんあるのだが、収まりがつかなくなるので割愛する。
私はこの映画を見ている2時間、絶えず感情がゆすぶられ、様ざまなことを考えた。もちろん心も打たれた。想像力を掻き立てられる素晴らしい作品だった。鑑賞して本当によかったと思う。

長い記事を書き終わってみれば、当ブログでいつも記していることと、主題も内容もたいしてちがっていないことにも気づいた。 映画評論めいた今回の文章も、『 Blue あなたとわたしの本』のナンバーシリーズに組みこんだ所以である。

 

 

 思っていたよりも長文になってしまいました。 最後までお読みくださり、ありがとうございます。「PERFECT DAYS」を観られたかたがいらっしゃいましたら、 ブックマークコメントでもコメント欄でもけっこうですので、自由にご感想をお書きください。「PERFECT DAYS」、本当に大好きな映画となりました。 
平山さんの部屋に遊びにいって、まずはじっくりと本棚の背表紙を見てみたいですよ。    

  智(とも)

 

 

 

 

 

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「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.2

Blue あなたとわたしの本 256

 

 

その後に起こる大きな出来事といえば、やはりこれだ。平山が恋心をいだいているであろうママのいる小料理屋(開店の少しまえの時間だろう)に行ったとき、見知らぬ男性とママが抱き合っているのをドアのすき間から見てしまう。平山は逃げるように走り去る。河川敷で缶ビールをあおる。ママと抱き合っていた男性がそこへ来るのだ。追いかけてきたものらしい。その男は元夫だった。難病におかされていて、余命いくばくもないであろうことが知れる。「あいつをよろしくお願いします」と男は言う。お願いします、と繰りかえす。
この場面は、リアリティがないように思える人もいたかもしれない。だが 死を覚悟したとき、人はこれまでの人生で出会った大切な人たちに、もういちど会いに行きたくなるときがある。あやまりたくなるときが。ありがとうを伝えたくなるときが。その人たちが幸せでいてほしいと願うときが。心が透き通ってしまうときが、あるのだ。元夫・友山は、そういう心境だったのではないか。 平山が逃げ去ったあと、「あの人は平山さんと言って──」という会話も当然ママとなされたはずだ。その口調、表情で、元妻の気持ちも友山は察したはず。この世的な自我がなかば浄化されているであろう友山が、気がつけば平山を追いかけていた、──不思議ではないように思う。
そして影踏みのシーンがくる。
友山は、「影ってかさねると濃くなるんですかね」と不思議なことを言う。「わからないことだらけだな。けっきょくわからないまま終わっちゃうんだなぁ」と。
「やってみましょうか」と平山は答える。
街灯のまえに立ち、二人はじっさいに影と影とをかさねる。「変わらないかなぁ」と友山はさびしげにつぶやく。平山は、「濃くなってないですか。なってるんじゃないですか」と返す。「濃くなんなきゃおかしいですよ。なんにも変わんないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と平山は言い張るのだ。
私はこのシーンで、あのセリフがフラッシュバックした。「この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」。平山はこういった諦観をもった男だ。だが、何かの拍子に、つながっていない世界と世界がかさなったとき、少しぐらい色も濃くならなければ、木漏れ日のように心もゆらがなければ──なんにも変わらないなんて──それではあまりにも寂しすぎるじゃないか、そんな平山の痛切な声を、この場面で聞いた気がする。
平山さんは決して人間嫌いでも、自閉した人物でもない。閉じた人間は駅と直結した地下街の居酒屋などで夕食をとらない。改札が見え、すぐうしろを人が慌ただしく行き交うような場所では。店主が毎回 話しかけてくるような古本屋にも行かない。現像された写真を受け取るためとはいえ、カメラ屋にも通わない。店を出るとき主人とかわす「ああ」「うん」という挨拶ともつかぬやりとりのなんとすてきなことか。あるいは公衆トイレに残された謎のメモ。誰とも知れない人物とのつかの間交流。「ありがとう」と記されたその紙を、平山さんは大事そうにポケットにしまった。
影と影がかさなったなら──ヒビ割れた心と心が合わさったなら──平山さんはその傷口から奇跡的に差しこむあたたかな光をみいだしたい人なのだ。 影踏みのシーンに、私はそんなことを感じた。

あと、これは本筋とは離れた話題かもしれないが、この影踏みのシーンは〝降りてきた〟アイディアではないかと個人的には思った。 つまり、ヴィム・ ヴェンダース監督や、共同脚本の高崎卓馬氏が〝頭で〟考えたシーンではないのではないか、と。どちらかの右脳へ直接舞い降りてきた場面だったのではないかと感じたのだ。作品を作るとき、そういった幸運なことがまれに起こる。思考よりも先にそのシーンが展開される、その光景が〝見えて〟しまう。 何だろうこれは? とインスピレーションを受け取った人間はあとからその意味するところを考える。この情景はなんの隠喩なのだろうか、と。見当がつかないとそのアイディアを採用するのをやめてしまうケースもでてくる。意味がわからないし、ちょっと唐突すぎるかもしれないな、といった理由で。
──そのシーンを削ってはいけないのだ。たとえ作者にも意図するところを把握できなくとも。〝作品そのものが〟求めている情景なら。「なるほどこのシーンはだから必要だったのだな」と作者本人が数年後、数十年後に気づき、理解することさえままある。フィクション創造の面白みではないだろうか。 創作とは、〝何者かとの共同作業〟なのだ。
この影踏みのシーンに、作品自体が働きかけたインパルスを私は感じた。この場面があることによって映画が膨らみを増したと思う。豊かさを増した。
当初からあったアイディアなのか〝降りてきた〟ものなのか、もちろん私の知るところではない。なんにせよ、平山と友山が影と影とをかさねるシーン、二人の無垢なやりとり、そしてそれにつづく影踏みのシーンが、私はとても好きだ。

 

  後日、vol.3〈完結〉を投稿します。 

 

 

 

 

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「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.1

Blue あなたとわたしの本 255

 

 

映画「PERFECT DAYS」をもう観られただろうか。あなたがどういった感想を抱くのか、とても興味がある。もしまだ観られていなかったら──ネタバレもこれから書いていくので──鑑賞後にこの文章を読んでもらってもいいのかもしれない。 真っ白な状態で映画を観てみたいとお考えなら。

役所広司演じる平山さんの最後のあのシーン。 車中、正面からの大写し。その変化する表情の演技をどう解釈するかによって、観た人の持っている価値観・人生観が浮き彫りになるようだ。 
人によっては、「 平山は自らの生活をやはりみじめだと思っていた。だからラストで涙するのだ」と捉えるらしい。何人かからそういった感想を聞いた。私はそのようには受け取れなかった。
もちろん映画や小説の解釈は人それぞれだし正解はない(年齢や境遇によっても変わるだろう。この映画はとくにそうだと思う)。製作陣や作者にはっきりした意図があったとしてもそれが唯一の答えではない。どう受け取ってもいいのだ。だが、「平山さんが目に涙をためた理由はそうではない」と言い返したくなる自分がいた。平山さんがまるで実在の人物であるかのように。自分の近しい人でもあるかのように。 

この映画の主人公である平山は公衆トイレの清掃員をしている。古びたアパートでの一人暮らしだ。清掃は手を抜かず、黙々と仕事をこなす。道具まで自分でこしらえている。夕方にはアパートに帰ってくる。銭湯へ行き、地下街にある居酒屋で食事をとる。寝落ちするまで布団で古本を読む。そしてまた同じルーティンの朝を迎えるのだ。
観る人によっては、この主人公にイライラするようだ。上昇志向もなく、現実逃避をしている人物に見えるらしい。私の観た上映回でも何人かが途中で席を立った。そのまま戻ってこなかった。映画館ではあまり目にしたことのない光景だった。
「平山は家庭も持たず、親の面倒もみていない。人生のすべてから逃げつづけた成れの果てなのだ」といった意味のコメントも読んだ。
親と向き合っていない、という部分は私もうなずく。だが、それにもきっと事情があるのだ。平山にとっても心の傷となっているのだろう。この映画は説明されない部分が多い。回想シーンも用いられない。伏線の回収もなければ起承転結もない。ゆえに実人生と似ている。平山から目が離せなくなる。鑑賞後も頭から離れなくなる。

夜、木造アパートの前。妹であるケイコと再会するシーン。ケイコは運転手付きの高級車でくる。「こんなとこ住んでるのね」と彼女は言う。「ほんとにトイレ掃除してんの?」とも。彼女にとってトイレ掃除など誰かがやってくれるものだったのかもしれない。平山の実家は裕福だったのだろう。 大会社の跡取りだったのかもしれない。あるいは平山も一流企業に勤めていた時期があったのかもしれない。 たぶん彼は、魅力を感じなかったのだ。自分はそういうタイプの人間ではない、と自覚したのだろう。 社会的地位の〝高い低い〟より、 何よりも〝自分自身〟でありたかったのではないか。〝自分にとっての幸福とは何か〟を考えてしまう資質を持っていたのだろう。
「それは自分の道ではありません」とはっきり言うのは勇気がいることでもある。普通はそれができないのだ。親や親族、世間の目を気にして。自分自身の本性をこそ、深く見つめるべきなのに。 
若い同僚・タカシが急に仕事を辞め、タカシの受け持ちだったトイレまで清掃してまわった夜、 ガラケーをにぎった平山は会社にこう言い放つ。「毎日は無理だからね」。そう、無理なものは無理だと言える人なのだということがこのシーンでしめされる。夕方早くにはアパートに戻り、規則正しいルーティンを守りたいのだな、とも汲み取れる。残業手当などよりそちらのほうがきっと大切なのだ。平山の過去には、何か大きな出来事があった。たぶん父親との確執が。妹・ケイコの話にあった、ホームにいる父親は「もう昔みたいじゃないから」というセリフからもうかがえる。「俺には無理だからね」、 平山は、過去にもきっと父親に断言したのだ。
自分はそういったことがつとまる人間ではありません、つとまりたいとも思いません、と見定めること。それを受け入れること。自らを許すこと。そして〝なぜかしら惹かれる〟ことに正直になってみる。それが生きる、という行為への誠実さにもつながる。だが、そういった真摯さは他人には理解されにくいものだ。わがままに見えたり、変人に見えたり、ときには憎まれることもあるかもしれない。
平山さんの数少ないセリフのなかにこんなものがあった。「 この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
平山と妹の世界も「 つながっていない世界」だ。妹・ケイコは実家の裕福な環境に違和感をおぼえないタイプなのだろう。 平山の姪っ子であるニコは居心地の悪さを感じているようだ。 母親とも衝突し、伯父である平山のアパートへ転がりこむ。平山も、昔の自分とニコがかさなって見えたかもしれない。血もつながっている。愛おしく思わないわけがない。だが、いつまでも自分と居てはいけないという分別も当然ある。彼は妹に電話をかけ、迎えに来させる。妹のスマートフォンの番号も知らないだろうから、平山は実家にかけたはずだ。それで妹が出たとしたら、やはり妹が家業を継いだものと受け取れる。平山はこのとき自らの携帯電話を使わなかった。銭湯の公衆電話からかけていた。こちらの履歴を残す気はない。「つながっているように見えてもつながっていない世界」。その断絶は、深い。
平山はアパートの前で妹を抱擁する。ケイコもまた涙ぐむ。もう会うことはないであろうことを共に悟っているかのような場面だ。

 

  書き出したら、思っていたよりも文字数が必要なようです。vol.2、として近日中につづきを投稿します。

 

 

 

 

 

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思考は現実化してるし、夢も叶ってる。あなたとわたしがそれに気づいていないだけなんだ。

Blue あなたとわたしの本 254

 

タイトルを、「一瞬にして幸せになる方法」とどちらにしようか悩みました。どちらでもよかったと思います。

人っていうのは、すでに叶っていることよりも、まだ叶っていないことに意識を向けがちだと感じます。叶ってることって意外と多いんですよね。思考がすでに現実化していることって、多い。「いやいや、それがしていないんだよ」って人は言うかもしれないけど、それって、その人にとっての〝究極の目標〟であったりするんです、まだ現実化してないのは。でも、アレもアレもアレも叶ってるでしょ? って聞くと、やっぱり叶ってるんです(笑)。

これってどういうことかって言うと、いかに人が叶っていない事柄にばかり目を向けて日々を送ってるかってことです。コップに水が半分だけ入ってる例がよく挙げられるけど、入っていない半分ばかりに注目してるってこと。半分入っているどころか9割満たされていたとしても 足りない1割を見て、「ああ! 足りない! 足りない! なにひとつとして叶っていないぃ!」みたいな。なみなみと入っとるっちゅうねん。

でもその入っていない1割ばかりを毎日見て過ごすと、余裕で人は不幸になれます。絶望さえできる。暗く沈んだ状態で、生きてしまうことになる。

悲しいことだけど──そういう人って、多い。 ちょっと前までのわたしも含め。

この機会に、思い返してみましょう。あのときのあの怪我も 病気も治ったし、あの時代の苦しみからもなんとか抜け出せた。あのとき切実に願った夢も、いま叶ってるじゃないですか。

それらを見てあげましょうよ。どれだけの「ありがたさ」に囲まれていることか。

思考は現実化してるし、夢も叶ってる。うまくいっていることはたくさんある。8割9割の水はすでにコップに入っているんです。人生で成功している部分にあなたとわたしが注目していなかっただけなんだ。そのことに目を向けると、そこにはちん、と「幸福」が座ってる。思い出してくれたことを喜んでる。目にうれし涙をためて、ちょっとだけ恥ずかしそうに、微笑んでる。だって、あなたに満ち足りた気持ちでいてほしいって、「人生」はいつだって願っていたんだから。

「一瞬にして幸せになる方法」は、ある。それは自分が幸せであることを思い出すだけ。

幸せであり続ける方法」も、ある。それは自分が幸せであることを忘れないこと。

「うまくいっている事柄」を見つめて日々を過ごすこと。「幸せ」に焦点を合わせて生きること。

そうすれば「幸せの水」が勝手に増えてって、足りなかった部分まで満たしてくれるから。そういった現象が起こるの。注目したものが増えていくのがこの世界のカラクリだから。あなたにとっての〝究極の目標〟も、いずれ叶うんです。

手に入れている「幸せ」に、焦点を合わせましょう。

叶っていない部分にばかり目を向けて、自分に厳しくしすぎないでください。いじめないでください。悲観しないでください。

恵まれている部分に気づき、うまくいっている部分をたくさん見つけ、自らのこともねぎらい認めうやまい、いますぐ幸せを感じよう。

2024年、晴れわたった1年が あなたを待っています。

 

 

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一生 夏休みを過ごす簡単で強力な方法 ──もう「普通」はやめようよ──

Blue あなたとわたしの本 253

 

 

けっきょくさ、

あなたの人生で何が起ころうともさ、

ポジティブにとらえて

喜んでいればいいということです。

 

いいことが起これば

そりゃ喜べるだろうけど、

不愉快なことや嫌なことが起こってるのに

ポジティブにとらえて喜ぶなんて

普通はできないでしょ、って

あなたは言うかもしれない。

 

そうだね。

でもさ、

あなたとわたしだからさ、

もう「普通」は

やめてもいいんじゃないかなぁ。

もう「普通」はやめようよ。

 

不愉快なことが起こって

不愉快だと感じて

不愉快な反応しても

もっと不愉快なことが

押し寄せてくんだよなぁ。

当てつけみたいに。

 

だから

喜びのほうへ

意識を向けよう。

ポジティブな気持ちになれる

「大好き」なことに

サッ、と焦点も切り替えよう。

 

──「問題」が起こったとき、

「で? それが何か?」とつぶやくという

〝裏技〟にも時には救われます。

技、は豊富なほうがいいです。

実際、深刻にならなければならないことなんて

ないといえば何もないですから。──

 

喜びのほうへ

意識を向ける。

ポジティブな気持ちになれる

「大好き」なことに

サッ、と焦点も切り替える。

〝正攻法〟はやはりこちら、かな。

 

そりゃ、練習がいりますよ。

すぐにはできないですよ。

練習はいるけど

練習しがいのある練習ですよ。

 

少しずつでも

できるようになってったら、

日々の景色が

変わってく。

 

何があってもポジティブにとらえて

喜んでる人なんて、はたから見たら

そりゃバカみたいかもしれないけど、

不愉快なことに遭遇して

不愉快な反応して

ますます不愉快な日々にしていく

本当のバカな大人になってしまうよりかは

はるかにいいじゃない。

 

今日から、

いまから、

どんなことがあっても、

どんなことが起こっても、

喜ぼう。

ありがたい角度から眺めよう。

「これを経験したから

自分の望んでいることがわかったよ」でもいいしさ。

前向きに考えよう。前向きに考えたら

よかった点に思い至ります。

よかった点は必ず見つかる

実際にうれしいことに出会おうもんなら

(取り澄ましてないで)、

小さなことでも

飛び上がって喜ぼう。

 

──ちょっとやそっとのことで喜んではカッコ悪い、って

ナゾのブレーキを踏む人が多いのです。

そのオカシナ思い込みのせいで、

とんでもなく素晴らしいことが待ってる世界線へ移れるチケットを

つかみそこなってるの。

もっと喜びましょう。喜ぼう!

そうするだけで、幸運つづきの列車に乗れるから。──

 

大好き」なことに

サッ、と焦点を切り替える技にもいっそう上手くなろう。

大好きな本や、好きな曲、写真、絵画、映画、

居心地のいいカフェを何軒か持っておくのもいいね。

もちろん大好きな人たちも。

動物さんも、ね。

 

──動物さんの素晴らしいところは いついかなるときでも

「いま・ここ」に居ることです。

そして自分にとって「心地いい」ことを優先してる。

だから生涯 夏休みを過ごしているの。──

 

ネガティブな現象が起こったとしても

〝律儀〟にそのことばっかり考える必要はないんだってば。

誰も強制していなかったんです。強制できないの。だって、

何に意識を向けるかはいつだって100パーセント自由なんだから。

僕たち自身が、暗い想念を選び、

いつまでもそこにひたって、

灰色に自分を染めてたんだ。

もちろんそうやってでも、

いくつものことを乗り越えてきたし、

やり遂げてきたことは、

立派だったと思うよ。

目も背けずにさ。

逃げもせずにさ。

でもちょっとだけ

不器用で、

真面目すぎたかもね。

 

「問題」という流れ去るもののことは放っておこう。

必要以上に反応しない。

無視を決め込むわけではないけれど、のめり込むこともなく、ね。

自分は何を求めているのか。どういった感情がほしいのか。

そっちが大事さ。

 

何が起ころうとも「大好き」なことに時間を使うことを

忘れないようにしよう。

楽しいなぁ」をキープしよう。

心地いいなぁ」を維持しよう。

ちょっとした幸運にも

ガッツポーズで喜ぼう

 

注目するものが、

いつだって増大していきます

 

日々が変わってきます。

「問題」は、ありがたい角度から眺め、

学べることを学び、

本当に求めているものに

気づくための材料にもする。

あとは、

意図的に

放っておく。

のめり込まない。

大好き」に焦点を戻す。

「喜び」にとどまる。

日々が徐々に徐々に

根負けするように、

変わってきます。

何が起ころうともポジティブに解釈する。

前向きに受け取る

その経験を面白がりもする。あとは、

「大好き」に目を戻す。

「楽しいなぁ」に入っちゃう。

「心地いいなぁ」にとどまる。

ありがたいなぁ」まで思えたら最高さ。

 

──「問題」に注目しつづけなければ、

「問題」は自然と力を失っていく(そればかりでなく「問題」は、

あなたに「強さ」や「自信」さえ残していってくれることに気づくでしょう。

「問題」には、あなたにとって「有益な種子」が必ず含まれています。

それを探し出しましょう。「利点」を見い出しましょう)。──

 

この世的なもっともらしい「常識」からいち抜けて

いつも「喜んでる人」になろう。

そのコツは、

動物さんみたいに「いま・ここ」に居ること。

「いま・ここ」に在ること。

「いま・ここ」という 唯一の〝リアル〟のなかで、

「心地いい」ことを常に優先する。

「いい気分」でいる。

それができたら「人生」もう 上がり、なのです。

「人生」って「いま・ここ」のことだから。

「人生」、なんていかめしい概念の正体は、

「いま・ここ」のことだから。

「いま・ここ」は たいてい優しく穏やかですよ。そして、

「人生」が「いま・ここ」でなくなることなんて

未来永劫ないから。

「いま・ここ」を「楽しいなぁ」にできたら、

「ありがとう!」と思えたら、

もうパーフェクトなの。

完了、なのです。

 

「未来」にまで〝成功〟を持ち越す必要もないですよ。

「未来」なんてものはカレンダーのなかにしかありません。

「時間」なんてものも時計の文字盤が刻んでるだけ。

カレンダーも時計も便利だけど

人工的なものでしょ。

空に浮かんでるカレンダーなんて見たことないよ。

あるのは常に「いま・ここ」だけです。

いま・いま・いま、があるだけ。その

「いま・ここ」を「楽しいなぁ」にする。

「心地いいなぁ」を選択する。それには意識的でいよう。

「いま」、「いい気分」を選択するという一貫した意志を持とう。

「人生」という言葉をあえて使うなら、

「いま・ここ」を制すれば、「人生」を制したこととイコールです。なぜなら──

繰り返しになるけれど──

「人生」の正体とは常に、「いま・ここ」のことだから。

「人生」という時間的・物語的な概念も、〝人工的〟なものです。

いま・ここ」を楽しく過ごすことこそが〝自然〟なんだと気づけば、

成功〟なんだと悟れば、

頭のなかの霧が流れていって、

パアッ、と晴れわたりませんか。

そう、

自由、喜び、愛、感謝。

「いま・ここ」で、

大好きなことを大好きだと両手で抱きしめていいんです。

自らに、「それでOKだよ!」と許可を出していいんです。

それが好きな自分に〝大甘〟になりましょう。そうすれば、

ハッピーでいられます。そしてもちろん、

小さな「幸運」にも

両手を上げてバンザーイ!

「やった! やった!」

「できた! できた!」って喜ぼう。

「すごいぞ! すごいぞ!」って自分を褒めてもあげよう。

日々も徐々に徐々に

根負けするように、

変わってきます。

日々が徐々に徐々に

根負けするように、

変わってく。

変わらざるを得ないんです。

あなたの世界はいつだって

あなたの内面を映し出したものだから

いま・いま・いま、の「楽しい」が

いま・いま・いまの「機嫌の良さ」が、

次の「いま・いま・いま」にも投影されていく。

ハッピーの連鎖がやっと始まる。

陽光のなかを、

幸運つづきの列車が走り出す。

だから、

わたしたちの意識するべきことは、

「いま・ここ」に満ち溢れている「恵み」に気づき、

「心地いいなぁ」にすることだけ。

「楽しいなぁ」

「ありがたいなぁ」と手を合わせるだけ。

それで、パーフェクトなのです。

 

子どものころに過ごした

夏休みの景色みたいな日々に、

戻っていきます。

戻りましょう。

戻ろうね。

もう苦しまなくていいの。

いますぐ幸せになろう。

本来 人生って、

自由で、

キラキラした、

ワクワクした、

夏休みみたいなものだったはずでしょ。

一生 夏休みを過ごす価値があなたにはあるし、

その値打ちがあるからこそ生まれてきたんだよ。

心を躍らせながら、

「わーい、やったぞー!」って、

「思いっきり楽しむぞ!」って、

この美しい星へ、

バラエティに富んだ星へ、

ダイブしたんだ。

 

だから、

世間の「常識」にとらわれすぎず、

「大人らしい」演技が上手くなるのもほどほどに、

青く輝く日々を、

いま、いま、いま、を、

動物さんの心を持って、

子どもの心を持って、

満喫しよう。

「いい気分」を選ぼう。

「いま・ここ」を「楽しいなぁ」で満たそう。

青空の下でダンスしよう。

原っぱの真ん中でジャンプしよう。

「夢」を捕まえる

「大好き」という名の虫とり網をにぎって。

何が起こっていようとも、

何が起こっていなかろうとも、

おかまいなしに、

幸せでいよう。

 

できますよ。

できますとも。

幸福であることが本来

「あたりまえ」の、

〝喜びの子〟

〝永遠のいまの子〟

それが、

あなたとわたしなんだから、さ

 

 

 

 

 

 

 

それでもまだ命があるじゃないですか。

Blue あなたとわたしの本 252

 

 

 それでもまだ命があるじゃないですか。

 それをやっていると、

 ご自身が消えてしまうほど、

 好きなことも。

 

 それを命綱として、生きてゆけばいいのです。

 甘美な甘美な命綱です。

 

 何度も何度も死に、

 生き返ったあなただからこそ、

 見える世界ってあるんです。

 気づけることってあるのです。

 

 自分をいじめることももうやめましょう。

 苦しめば苦しむほど、

 あなた本来の道から

 それてしまいます。

 

 心地よくあれば

 心地よくあるほど、

 あなた本来のあなたと

 合致します。

 

なぜだかわからないけれど 大好きだ

なぜだかわからないけれど 楽しいなぁ

 それがあなたの魂の根なんだから。

 

 生まれ変わった

 何十回目かの今回の人生を、

 さぁ、生きよう。

 

 命があるじゃないですか。

 まだ命があるじゃないですか。

 それをやっていると、

 ご自身が消えてしまうほど

 好きなことも。

 

 大切な大切な 大好きなこと。

 愛おしい愛おしい 日々

 大事な大事な

 あなた

 

 

 

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「いま・ここ」を楽しもう、とすることの意外な落とし穴とその回避法

Blue あなたとわたしの本 251

 

 
 人生とは「いま・ここ」の連続であるということを理解している人は多い。人生には常に「いま・ここ」しか存在しない、と。 ゆえに、「いま・ここ」を有意義に過ごそう、「いま・ここ」を楽しもう、と人は気持ちを向けるし、僕自身そういった「Blue〜」をずいぶんと書いてきたような気がします。

 いまを生きよう、

 いまを楽しもう、と。

 そのこと自体はまちがっていないと思う。

 ただ、あなたやわたしのように、ある種 まじめすぎるというか、言語が好きで、かつダイレクトに受け止めてしまうタイプの人は、

 いまを有意義に過ごそう、

 いまを楽しもう、

 と意識しすぎると、その言葉自体が強迫観念となり、呪縛されてしまう危険性があることに、このところ気づきました。 それが今回 言う、「落とし穴」。

 言葉とはなんでしょう。 言葉はとても不完全なものです。

 いまを有意義に過ごす。

 いまを楽しむ。

 ──有意義? 

 それってつまりはどういうことですか。「意味・価値のあること」、辞書にはそう載っています。具体的にどういうことなのかわかりません。

 ──楽しむ?

 こちらはもっとわかりにくい。いったいどういう気持ちを指しているのでしょう。「心が満ち足りること」と辞書にはあります。なるほど。つまり「いまを楽しもう」とは、「いまという瞬間を満ち足りた心で過ごそう」ということなのでしょう。でもそれって、実はとても難しいことだと思いませんか。その難しさに気づかないまま、僕たちは、「そうだ、いまという瞬間・瞬間を満ち足りた心で過ごすぞ」と意気込んでしまうのです。とくに僕たちは言葉が好きだから。言葉がすべてを言い表してくれると錯覚しながら。「いま を楽しむぞ!」と、気負う。

 言語は──ましてや単語は──あまりにも不完全です。記号的なものです。その単純さを忘れ、多面的な僕たちの心・感情を、丸ごと表現し切れるんだと、思ってしまっているのですね、無意識のうちに。 「楽しい」、にしても実際はとても複雑な感情なのに。

 ここで身近な例を挙げましょう。あなたやわたしとよく似たタイプの人に登場してもらいます。

 彼・彼女は、久しぶりの休日を迎えます。待ちに待った休日です。ずっと読みたかった新刊本をカバンに入れ、お気に入りのカフェに出かけます。この店での数時間を有意義に過ごそうと考えています。この時間をめいいっぱい楽しむぞ、と。学校や職場、家庭のこともひとたび忘れ、「いま・ここ」を楽しむのだ、と。 一人で過ごすことも苦にならない・内面の豊かな人なのです。

 でも、思っていたほど楽しめません。楽しんでいない気がしてくる。どうしてだろう? もっと楽しまないと。あれほど待ち焦がれていた休日じゃないか。もっとこの時間を楽しまないともったいない。「いま・ここ」を楽しむんだ!

 しかし、彼・彼女が期待していたほどの充実感はけっきょく得られず、お気に入りのカフェをあとにしたのです。

 どうしてでしょう。どうしてこんなことが起こったのでしょう。これに近い経験が、あなたやわたしにもあったのではないでしょうか。なぜ心待ちにしていたその時間を、思ったほど楽しめなかったのでしょう?

 ──僕は思うのです。それは、「有意義に過ごすぞ」「楽しむぞ」を先に強く持ちすぎたからではないかと。「楽しむ」という定義すらも明確になっていないままに。「楽しもう!」という言葉のクサリに縛られてしまったのです。その記号が、強迫観念にすらなってしまったのでしょう。そうなっては、「楽しい」という心理状態になど至るはずがありません。

 ではどうすればよかったのでしょう。回避法はあったのでしょうか?

 それは、「充実した時間を過ごそう」や、「楽しもう!」を先に思わないことです。そう〝思わない〟 こと。 つまり、「自分は『いま・ここ』をめいいっぱい楽しむんだ」、これも〝思考〟だったのです。 あるがままの「いま・ここ」には居ません。「『いま・ここ』をめいいっぱい楽しむんだ」という思考のなかに居ます。人生とは「いま・ここ」のことである、というその本質的な事実だけを認識しておけばよかったのです。ただ、それだけで。「いま・ここ」、に安住してさえいれば。

 彼・彼女の「人生」は、カフェの席についている「いま・ここ」の連続以外は存在しなかった。彼・彼女の人生は ほかにどこにもありません。「いま・ここ」のみが実体を持った「人生」です。過去も未来も「人生」ではなく頭のなかだけに思い浮かべられる「思考」です。カフェでの、いま・いま・いま、という、瞬間・瞬間・瞬間、だけが、彼・彼女の「人生」。 それを忘れてしまい、未来、を最も大切な到達すべき人生、だと定めてしまうと、たったひとつの実在である「いま・ここ」の価値がいちじるしく低下してしまいます。「楽しい数時間をわたしは過ごすんだ」、これも厳密に言えば未来を見ています。目的に生きています。「いま・ここ」が到達すべき地点への手段となっています。彼・彼女は、「人生」に腰を据えていない人、になってしまいます。「思考」のなかを漂っている人、になってしまいます。そしてこれこそが、おおかたの不安やあせり、理由のよくわからないいらだちの原泉となっているように思われます。「いま・ここ」に、居ない、ということ。「思考のなか」に、居る、ということ。「いま・ここ」のみが、唯一の「実在する人生」だというのに。──

 だから、──恐ろしくも光栄なことに──あなたの「人生」は、僕の文章を読まれているこの瞬間・瞬間、ということになります。あなたの「人生」は、僕の書いた文章を読んでいる この一瞬・一瞬です。それ以外、あなたの「人生」は、いま・いま・いま、どこにもありません。そうではないですか。 でもそれは、あながち悲観されることではないかもしれません。なぜなら、もしあなたの現状が、にっちもさっちもいかないほどに大変極まりないものであれば、どこの誰が書いたとも知れないブログなど、呑気に読まれているわけがないからです。どうしようもないほどの肉体的苦痛にのたうち回っていらっしゃるわけでもないでしょう。そんな体調では、文章を読んでなど、やはりいられるわけがないですから。となると、
 とくに面白くもおかしくもないと思っていたこの「いま・いま・いま」が──あなたの「人生」が──ありがたく、いとおしくなってはきませんか。僕たちは意外と、いえ、ものすごく、たいていは恵まれた「いま・ここ」を過ごしているのです。「いま・ここ=人生」に在るのです。それに気づかないでいるだけです。頭のなかの声が、不平不満を始終しゃべりつづけていますから。あるいは起こってもいない心配事ばかりを考えていますから。あたりまえにある平安を、絶えまない思考の騒音が、掻き消している。

 常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」です。この本質的な事実を発見すると、ありがたさと、感謝と、なんとも言えない安らぎが、自動的に込み上げてくることにお気づきになることでしょう。

 先ほどのカフェの例に話を戻します。つまり、この場合でしたら、カフェの椅子に座っている「いま・ここ」のみが、自らの「人生」だと受け入れればよかったのです。それを認識するだけでよかったのです。「こういうふうに過ごすぞ」という目的を持たなければいいのです。「人生」に、しっかりと、ただ在ればよかったのです。そうすれば感謝と安らぎに満ちた微笑が、自然と唇に浮かんできたことでしょう (ちなみに、1,000円前後も〝お茶代〟として支払えるのは、世界的にみればごく一部の人たちだけです)。

 あとはその恵まれた平安の中で──「有意義」も「楽しむ」も忘れて──好きな飲み物を味わい、大好きな本のページをめくればいいのです。いま、いま、いま、と。そこには「いま・ここ」=「人生」の手触りがあります。香りがあります。色彩があります。五感が研ぎ澄まされ、「いま・ここ=人生」のリアリティがよみがえってきます。

 そして カフェでの時間という「人生」も過ぎ、自宅の食卓についている「人生」、あるいは眠りにつこうとベッドで仰向けになっている「人生」になったとき、カフェにいた「人生」を 彼・彼女は思い出します。そして、「あぁ、楽しかったなぁ」とそこではじめてなるのではないでしょうか。「有意義な時間だったなぁ」と。それらは先に目指すものではなく──目的にするのではなく──のちの「いま・ここ=人生」でしみじみと感じるものなのです。思わず手を合わせたくなるような、感謝の思いとともに。

 少しわかりにくい「Blue〜251」だったかも知れませんが、まとめてみます。

 

   

   まとめ


○  言葉は不完全なものであり、記号的なもの。ゆえに「有意義に過ごす」や「楽しむ」を先に目指してしまうと、あせりや不安にとらわれやすい。「楽しい」という精神状態にも至れず、失意のうちに終わってしまうことが多い。

 

○ 人生とは「いま・ここ」のことであり、常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」。「人生」はほかにはどこにも存在しないという本質的な事実を認識しておく。そしてその「いま・ここ」に「言語」や「目的」を持ち込み、「手段」にしてしまわない。自らの「人生」に、ただ在る。そうすれば、状況の推移した「いま・ここ=人生」から見たとき、「楽しかった」が心に浮かぶ。

 

○ 「いま・ここ=人生」はたいてい恵まれたもの。ありがたく、いとおしいもの。人は思考することに忙しく、頭のなかにしかない過去や未来に目を向けすぎ、「いま・ここ=人生」の豊かさを損なっている。「いま」が、「ここ」が、「自分の人生」。常に「いま・ここ」のみがあなたの「人生」。このことを毎瞬・毎瞬 意識できると、命はかがやき、歓びと平安に自動的に包まれる。

 

 

 僕も先日、久しぶりにこのブログを更新しました。

 サイト「Blue あなたとわたしの本」のタイトルカテゴリである 『Blue あなたとわたしの本 201〜250』から15本を選び、ベストの第5弾をつくったのです。

 投稿日の古い順から読み返し、リンクを貼っていきました。デスクに向かって作業をしている「いま」が、「ここ」が、自分の「人生」、と認識しながら。「楽しもう」や「有意義に過ごそう」は持ち込まずに。

 ですが、そういったことも実はすぐに忘れ、ただただ夢中になりました。気がついたときには4時間以上が経っていました。「自分」というものもほとんど消えていました。僕はノートパソコンの蓋を閉じ、ワークチェアから立ち上がりました。ソファまで歩いていき、座りました。背もたれに身をあずけました。天井を見あげました。そして、やはり、こう思っていたのです。 ありがたく、いとおしい、恵まれた「いま・ここ=人生」のなかで。

 ──すごく、楽しかった、 と。

 

 

 

 

 

 

 

『Blue あなたとわたしの本』ベスト第5弾

 

 

 ものすごく、お久しぶりとなってしまいました。智(とも)です。

『Blue あなたとわたしの本』ベスト第5弾をお届けします。

 ブログ「Blue あなたとわたしの本」のタイトルカテゴリである 『Blue あなたとわたしの本 201〜250』から15本を選びました。

 投稿日の古い順からリンクを貼っていきます。

 

 僕、この『Blue〜203』、書いたことをほとんど忘れていました。久しぶりに読んで、「そうだよなぁ」とつぶやいていました。 このことを、忘れちゃいけないですよね。あなたのそんな今日こそ、ニュースにしたい

 

『Blue〜205』は、 よくぞ言ってくれた、ラクになった、といったお声をけっこういただいた回でした。人によっては、 病的なことを書いているなぁ、と感じられたかもしれませんね。でもこのサイトは「Blue 不特定多数のかたの 本」ではないですから。「Blue あなたとわたしの 本」ですから。〝あなたとわたし〟がほんの少しでもラクになったり、クスッと笑えたりしたらそれでいいわけです。

 

 その通り。100パーセントその通りだ。

 

 オールタイムベストを編むときがあれば必ず入れるであろう1作。

 ──ん? 今回のベスト、もう4つ目か? 4つも選んだのか? 15作で足りるんか ベスト第5弾?  僕もいま読み返しながらリンクを貼っていっているのですが、ヤバいわぁ、『Blue〜 201〜250』、捨て曲 ないわ。かといって50本あるうちから40本もベストに選んじまったら、誰か僕の後頭部をシバきにくるだろうしなぁ。

 

 書いた当時、気に入っていた『Blue〜211』。
 いま読んでも、うん、共感しますね。

「居場所」を見つけられた人は、それだけで素敵だ。人から認められようが、認められなかろうが、まちがいなく人生は豊かになるよ。

 

『Blue〜198』  あなたやわたしが手を下すまでもなく - Blue あなたとわたしの本

と、合わせてお読みいただきたい『Blue〜217 誰かに悪口を言われたら』、ですね。

 

 うん、『Blue〜221 生きる意味とは自他に優しくなることだと思う』、これも外せないかな。
 あなたの心へ、まっすぐに届けばうれしい。

 

 はい、ささやかだけれど強力な方法だと思う。一生使えると思う。

 明日からのあなたの日常が変わるかもしれません。ぜひ、お試しくださいね。

 

 やや毛色のちがった『Blue〜237』。検索流入数が多く、今でもよく読まれているようです。新社会人のかたの役に立っていると、うれしいですね。

 

 派手さはないけど、届く人には届くのが『Blue〜240』じゃないかなぁ。ピンポイントで〝あなた〟に達すればいいわけで、そういう意味では『Blue〜』らしい『Blue〜』と言えるのかもしれません。

 

『Blue〜240』とはまたタイプがちがうけど、『Blue〜241』も『Blue〜』らしい『Blue〜』だと思います。人生にスリーノックダウン制 はないですよ、本当に。

 

 この『Blue〜244』も内容をほとんど忘れていました。いま読み返していて面白かったので、つい貼った (#^.^#) 。 このタイトルはいわゆる〝釣り〟だよなぁ (#^.^#) 。ドラッグどころかお酒もタバコも僕、大キライだもん ヽ(´▽`)/ 🌞。

 

「タイトル」はトーマス・エジソンの言葉から取りました。

〝はぐれ者〟のかたに読んでほしい『Blue〜245』。

〝はぐれ者〟であることに誇りを持ってほしいですね。

 

 この気持ちは変わらないと思う。今も変わりません。

 文章があって、本当によかったよ。

 

 「Blue〜250 命のラブレター 生きづらさを抱え続けたあなたとわたしへ」。基本的に、今もこう考えていますが、読み直していて補足したいことも浮かびましたので、『Blue あなたとわたしの本 251』を書き、近日中にアップします。やや長いものになるかもしれません。ほぼ1年ぶりの新作『Blue〜』となりますね。

 

 ──ふう (*^o^*) 、なんとかベスト15に収まりました。よかったぁ。これで誰もシバきにきーひんやろぅ (#^.^#) 。

 けっこういいベストが組めたんじゃないかなぁ。 でも、「あっちの『Blue〜』のほうがずっといいじゃないか。どうして外したんだ?」と思われたかたもいらっしゃるでしょうね。それはそれでとても嬉しいことです。あなたにとってのベストが、もちろん『ベストBlue』です。



 最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。感謝いたします。

 あなたとわたしの毎日が幸せなものでありますように。心穏やかなものでありますように。

 またお逢いいたしましょうね。

  
  智(とも)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

命のラブレター  生きづらさを抱え続けたあなたとわたしへ 

Blue あなたとわたしの本 250

 

 

 命が尽きるその瞬間まで、

 好き、を優先しよう。

 自分自身、であろう。

 自分自身、を貫こう。

「こうでなければならない」など何一つこの世界にはないんだから。

 どこの誰が決めたかもわからないような価値観・常識に従う必要などないのです。

 この二年余りだってさ、今まで「よし」とされてた価値観がずいぶんと崩壊したぜ。

「新しい生活様式」っていうのが出てきたじゃないですか。あのとき、でも思ったよ。

「〝新しい〟 も何も、30年以上前から俺が実践してる生活様式じゃねえか」って。

 買い物は一人で行け、とかさ。 並ぶときは距離をとれ、とかさ。公園はすいた時間に、とか。

 自転車を利用しろ、だの。筋トレは自宅で、だの。食事に集中して喋るな、だの。お酌は控えろ、とかさ。 お酌したり・されたりすることほどゾッ、とすることもまぁ、あんましないよ、僕。

 俺の時代が来たのかよ、って思ったよ、ほんと。

 俗語、みたいなものって嫌いなんだけど、「黙食(もくしょく)」って言葉が出てきたときは久しぶりにシビレたよ。ほんっと、黙って食べようぜ、って。

 今までは変人とされてたんだから、そういう人って。暗い、とかさ。

 今じゃ、「いえいえ! 大人数での会食なんてしていませんってば!」って逆に言いわけしなくちゃならなくなったんだから。ちょっと前までは社交的でエネルギッシュな人、みたいな良いイメージだったじゃない。

 ずいぶんと生きやすくなったもんだよ。大人数での会食なんて避けたいことの「不動のベストスリー」だったもんなぁ、僕ちゃん。

 うがい・手洗い・マスクもさらに徹底するようになったしさ、ノドひとつ痛くなりもしやしねえよ、ありがたいことに。いつも顔の下半分を隠していられるからか気疲れみたいなのも減った気がする。外を歩くときはマスク➕帽子➕サングラスだもんなぁ。まぁ、これはかえって目立つみたいだからサングラスはやめたけど。

 大っぴらにはあまり言われないけどさ、この二年、良い面も多々あったような気もするよ。ほっ、とした人たちもいると思うなぁ。

 もちろん、僕だって早く収束してほしいですよ。罹患されたかたは後遺症もなく全快してほしい。当然です。 社交的な人たちが社交を楽しんで、世の中に活気があったほうがいいよ。こっちはこっちで 「新しい生活様式」を楽しく続けさせてもらうからさ。変わり者はいつの時代でも、少数派でいいんだよね。

 話がちょっと逸れちゃったけど、僕が言いたいのは、

 絶対的な価値、なんてものはないってことです。

 コロコロ変わるの。その時代その時代で。その時その時で。

 ありもしない・いっときだけのカリソメの価値観に自分を合わせすぎて、窮屈に生きていく必要などないですよ。同調圧力みたいなのもいつの時代でもあったし、今もあるし、これからもあるだろうけど、自分の知識・経験、そして何よりも直感、を優先するのがいいような気がします。そのほうが、きっと後悔しないな。不特定多数に迎合してお仲間に加えてもらっても、あなたを最後まで守ってなんてくれやしないから。自分を守るのは、やっぱり自分なんだよね。自分、がどうしたいかなんだ。

 大切なのは、あなたにとっての、〝変わらないこと〟。それを自分で知っている、ということ。それを尊重する、ということ。

 不必要だとあなたが直覚するものや、価値観なんて打ち壊してでも、自らの心の声に従い、数十年の人生を面白く生きようよ。

 そんなけったいな人ばっかりになったら世の中がめちゃくちゃになるじゃないか? って。

 そうかなぁ。

 じゃあ、ルールを決めよう。いくつもいくつもあったらめんどくさいから、僕はひとつに絞ったんです。

 そのルールが、

自他を思いやる」。

 これだけ。これだけで充分。

 とくに自分を思いやること、だな。

 自分を思いやれれば、人のことも思いやれる。その余裕・スペースが生まれる。

 ルールは「自他を思いやる」、それだけで本当にいいのかをこれも三十年以上かけて検証してるんだけど、今のところなんの問題もないよ。

「自他を思いや」りながら犯せる悪事・犯罪はひとつもありませんでした。

「自他を思いや」れないからそういったことができるんです。しようって気が起こるの。

「自他を思いやる」をもう少し具体的に言うと、

「自分」や「他人」が大切にしていることを大切にする、ということ。

 何よりも人は、自分の体、を大切に思ってるじゃないですか。だったらさ、それらを大事に思ってあげなくちゃね。大切にあつかってあげなくちゃ。自分の命も。他者の命も。

 そしてあとは、自分らしさを・その人らしさを・その人にとっての大切なモノや概念を、 尊重してあげる、ってこと。

 なぜかしら惹かれつづけること、っていうのがあるからね、人には。

「大切だ」って、思える・湧き上がってくる、その人由来の〝変わらないもの〟が。

 それらに敏感でありたいんです。それらに気づいてあげられる人間でありたいんです。

 例えばさ、ごくたまにボウリングをするのは楽しいだろうけど、毎日やれっ、て言われたら、ツラクないですか? 野球でもサッカーでもテニスでもスキーでもなんでもいいんだけど。毎日やれって言われたら、僕なんかは逆に苦痛だなぁ。でもさ、毎日それだけやれれば幸せ、って人もいるわけですよ。ギターさえ弾ければ、絵さえ描ければもう幸せ、って人が。お菓子を作っていられたら、お人形を作っていられたら幸せ、とかね。その人その人の〝それら〟がさ、〝何か〟がさ、とてもまぶしく映るの。「そうかぁ、この人はそれが好きなんだなぁ。やりたいんだなぁ」って思うと、目を細めてしまうんです。「そうかぁ、この人は写真を撮りたいんだぁ」。「詩を書きたいんだぁ」。「踊りたいんだぁ」って。 愛おしくなるんだよ。深い敬意も感じてしまう。そして、応援したくなるよ。

 なぜかしら惹かれつづける行為、ってものが、人それぞれあるんだよなぁ。人それぞれ違うんだよ。それが「得意」で、「好き」で、「とても大切に思えるんだ」、っていうものがね。不思議だよね。不思議じゃないですか? とっても面白いじゃないですか。

 関節技の練習をとにかく一日中していたいんだ、って人も知ってるよ、僕。

「得意」で、「好き」で、「とても大切なんだ」を、人はやればいいと思うのです。それを手放しちゃいけないんです。

 その人がその人であるときにいちばんその人その人で、他者のためにもなるんだよ。パワーを与えられるの。いい影響を与えるんです。そして、本人もより優しくなれるの。「甘ったれんなぁ!」とかって言う甘ったれた人間の言葉を信じちゃダメだよ。自分の〝好き〟がなんなのかを見つめようともしない甘ったれた人間の言葉を。

 好き、だという衝動。突き上げてくる情熱。「くっそー、ワクワクしちゃうぜ!」、それこそが信じられるものなんだ。理屈を超えたものなんだから。誰かに押し付けられたものじゃないんだからさ。

〝それ〟を命綱として、生きていけばいいと思うよ。

 過去とか未来とかを見すぎるのもよくないな。たいてい気持ちが揺れちゃうんだから。下手したら揺れながら沈んでく。怒り、や不安、が重しとなってね。

 いま・いま・いま・に、波乗りするように生きるんだ。いま・いま・いま・に没頭し、後方へ「いま」が送られていくようなイメージ。 二度と戻らない、たった一度の掛け替えのない一瞬に、命まるごと〝乗る〟んだ。命まるごと〝在る〟んだ。 いま、という瞬間には、怒りも不安も存在しないことに気づくから。

 それが本来の〝時間〟なんだと思うよ。〝時間〟の過ごし方なんだと感じる。そしてそれがいちばんラク、でもあるんだよなぁ。「いま・ここ」だけに集中するの。〝時間〟という概念はカレンダーや時計といっしょでさ、便利なように人間がこしらえたものだよ。実際に流れてるわけじゃないの。流れてるようには感じるけどね。ある意味、もっと〝閉じた〟ものだよ。閉じながら連続する・光り輝く珠(たま)みたいなもの、時間は。 だから〝せばめた〟ほうが、 せばめられるほどせばめたほうが安楽を感じるんです。

 いま・いま・いま・いま・いま── 人は、永遠の〝いまの子〟。年齢なんてのもただの記号。一瞬の、永遠の、青春を生きていいんです。 

 虚無感を抱き、やさぐれ、情熱もなく、日々をただ消化するような生き方をしようとしても、真っ直ぐなあなたの心根(こころね)が抵抗してきますよ。「みんなそうしているんだから」って無理やり納得しようとしても。

 もっと馬鹿でありたいんですよ。

 熱中したいんです。

 没頭したいんです、

 世界も意識も消えてしまうほどに。

 瞬間・瞬間を後方へ飛び散らせ、輝きそのものでありたいんです。

 それでいいじゃないですか。

 それがいいじゃないですか。

 そのためにあなたはココへ来たんだ。

 いま・いま・いま、を、

 使い尽くし、楽しもう。

 命が尽きる最後の瞬間まで〝好き〟をやり続けるって決めてしまおう。

 自分に許可を出そう。

 自分らしさ、を認めよう。誇りを持とう。

 そうすれば人生はシンプルになるから。いらぬ迷いも減るから。

 それが自分を思いやる、ってこと。

 自分を敬う、ってことです。

 あるがままの自分を愛する、ってことです。

 そこからすべてがスムーズに移行してく。

 レールが切り替わって、ちがう風景が広がるように。

 だから、

 誰に何を言われようと。

 あなたの特性を信じ、

 守り、肯定しよう。

 そしてそのユニークな軌跡を、生ききった輝きを、

「命のラブレター」として若い世代に残そうや。

 あなたの子どもたちに。これから生まれくる命に。

「どうだ! 自分はありのままの自分を生ききったぞ!」と煌めきながら砕けちろうぜ。「楽しかったぁ!」って、さ。「ありがとう!」って、さ。

 どんな時代になろうと、どんな世の中になろうと、

「好き」に没頭する、あなたのいま・この瞬間には、いかなる危害も加えられない。

 何者であろうともその尊厳を侵(おか)すことはできない。

 今日も、明日も、

 永遠の、一瞬の、〝時間〟を生きよう。

 一瞬の、永遠の、〝きらめき〟を生きよう。

〝いま・ここ〟に集中しよう。

 あなたとわたしが生まれてき、〝いま〟生きているということは、とてつもなく眩しいことなんだよ。

 目がくらむほどに奇跡的なことなんだよ。

〝いま・この瞬間〟には、可能性という名の無限のレールと、際限のない応援と、安らぎ、があるんだ。

 あなたがあなたであることを心から敬い、愛してあげてください。

 そのままの個性を。

 あるがままの特性を。

 光り輝く連続する球体のなかで──。

 そう、あなた自身が、それをずっとずっと、

 待ち望んでいたんです。

      

 

 

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ほんとうに大切なのは 自分のしたいことを 自分で知ってるってことだよ

Blue あなたとわたしの本 249

 

 

 あなたが誰かを、あなたの思う通りに動かそうとしても無理なのです。

 あなたが誰かの本心を、完全に把握しようとしてもそれも無理なのです。

 それを無理だと悟らずに試みつづければ、エネルギーを浪費していくことでしょう。

 最後には、「自分は無力だ」とまで感じてしまうかもしれない。

 

 あなたがあなたの思う通りに動かせるのは〝あなた自身〟だけだ

 あなたがその本心を十全に汲み取れるのも〝あなた自身〟だけだ

 

 ムーミンに出てくるボヘミアン、スナフキンはこう言った。

 

ほんとうに大切なのは 自分のしたいことを 自分で知ってるってことだよ

 

 僕たちが、最も関心を寄せなければならないのは、自分自身の本心だ

 僕たちが大切にしなければならないのは、自分自身が〝何をやりたいか〟だ。

 自分自身を、思う通りに動かす、ということ。

 そこに焦点を当てていれば、エナルギーが充電されていく

 燃えたぎってくる。

 他者の言動よりも、

 自分自身に注目しよう。関心を寄せよう。期待しよう

 今までも・今も・これからも、あなたとずっと一緒にいてくれて、共にがんばり、共に悩み、これからも喜びの涙を流してくれるのは、〝あなた自身〟なのだから

 

 自分自身を、深く、愛そう。

 やがて、自他とのさかい目が少しずつ薄くなり、

「与えたい」という感覚が全方位的に拡がっていく。

 理由、を必要としない「歓びの想い」も。

「感謝の念」も湧いてくる。

 まずは

 自分自身を

 深く・深く

 愛そう

 そこから思いもしなかった〝物語〟が始まっていくから。

 

ほんとうに大切なのは 自分のしたいことを 自分で知ってるってことだよ

 

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 あけましておめでとうございます。

〝今年も〟良い年になりますように。

 そう、 〝今年〟 も。

 つまりは、どこにフォーカスするかだと感じるのです。

「ありがたいなぁ」と思える点は必ずあるはず。

 いつだってあるはず。

 どんな状況でもね。

 今日だって、洗濯機が当たり前のように動いてくれて、

「ありがたいなぁ」ってさっき思ったよ。

 パソコンがふつうに起動してくれることにも。

 そんなところを、見ましょうよ (^_−)−☆ 。

 今日から始まる365日。

 あなたにとって、

 わたしにとって、

 最高の1年となりますように。

 きっとそうなるよ。

 
 今年もよろしくお願いします。

 

  
   追伸  僕も小説の連載をしている文芸同人誌「Faith」を昨年お取り寄せいただきました皆さま、ありがとうございました。数に限りはございますが、発行者が現在も無料で郵送されています。ご興味を持たれた方はこちらからメールでお問い合わせください。

   ↓

諸君、狂いたまえ!【重要なお知らせ】 - Blue あなたとわたしの本

 メールに、「智(とも)のブログを見た」と記していただけるとわかりやすいです。

 
 はてなブログ「空へ ひろげて」でお馴染みのスフレさんも「Faith」の同人です。彼女の初の詩集「ウキウキ でんしゃさん」も『七月堂』から出版されました。色々な意味で、「ウキウキ でんしゃさん」は奇跡的な書だと僕は感じています。こちらも、ぜひ。

   ↓

初めて みたい - 空へ ひろげて

 

 なお「Faith」は、詩・エッセイ・小説 の原稿を募集しています。

         
   智(とも)

 

 

 

btomotomo.hatenablog.com

 

 

いつか文章になるその日まで

Blue あなたとわたしの本 248

 

 

いつも文章のことを考えている。

朝、目覚めると、文章のことを考えだす。

文章が書けるから、ベッドから出ようかと思う。

日中も文章のことを考えている。

夜、ベッドの中でも文章のことを考え、

眠りの中でも、文章の新しい技術・表現を思いつくことを願う。

日本語、というのは、まだ完成されていない言語です。

ひらがな・カタカナ・漢字の組み合わせの効果。思想としての句読点。係り受けのさらなる探求。文末のバリエーション。過去・現在・未来、時制の移動。リズム、スピードのコントロール。人称のポシビリティー。無窮文体。

無限の、とてつもない可能性が残されてる。

それらを、追い求めたい。

言葉をさわらせてもらえること。

言葉をつつめること。

言葉をそっと移動させられること。

言語を尊重し、

言語に感謝し、

言語を楽しめること。

文章のことを考え、

言葉をつづれることが嬉しい。

文章作品の新作をまだ生み出せることが、

それをあなたに読んでもらえることが、とても嬉しい。

 

文章が〝なまくら〟にならないように、

食べるものに気をつける。

お酒やタバコは口にしない。

よく歩く。

筋力トレーニングも怠らない。

瞑想する。

 

ここがいったいどこなのかはわからない。

ここがなぜ存在しているのかもわからない。

ここが本当に存在しているのかどうかもわからない。

ただ、自分が文章というものに強く惹かれることは、

わかる。

ならば、その気持ちを信じるしかない。

その気持ちに、正直に生きていくしかない。

その気持ちで、立ち向かうしかない。

文章のために生かさせてもらい、

文章のために死なせてもらう。

文章。文章。文章。 

 

いつか文章の中で、

僕は存在することになる。

僕は文章になる。

文章が僕になる。

いつか文章になるその日まで、

この世界で言葉をつむげることが嬉しい。

生まれてきてよかったなと思う。

あなたと本の中で出逢えたこと。

この世界で出逢えたこと。

あなたに読んでもらえたこと、

あなたと心と心を重ね合わせることができたこと、それが、

嬉しい。

 

すべての文章に命が宿り、

すべてのページが光り輝いている、そんな、

奇跡の書物を僕は残したい。

 

 

いつか文章になるその日まで、

なにがあろうとも、

どんな時代になろうとも、

どれほどの闇が眼前に立ち込めようとも、

この世界で、

文芸に精励したいと思う。

生きていきたいと思う。


今を生きたいと思う。

 

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「イエス・バット(yes but)法」で夫婦仲・カップル仲が良くなるんです!

Blue あなたとわたしの本 247

 

 

 ご夫婦のお話をよく聞かせていただきました。

 一時期、そんな機会が多くありました。

「ケンカが絶えない」と、みな仰るのです。

「実はこうこう、こんな感じでね」とご主人が言われます。

 すると間髪をいれずに奥さまが、

「あなた違うでしょ! こうこうこうでしょ!」と返される。

「お前、ちがうだろ! こうだろう!!」

ー! あなたこそ間違ってるわー!!」

 そして声をそろえてこう聞かれます。

「どうしてケンカが絶えないんでしょう?」

 ── そら絶えんやろと

 
 少し大げさに書きましたが、ほんとこんな感じなんですよ。

「イエス・バット法」は、営業シーンでよく使われる話法です。

 相手の発言を、「本当にそうですね(yes)」といったん肯定し、「でも(but)」と自分の伝えたいことを〝そのあと〟に言うトークスキル。「そうですね(yes)」といちど理解を示されていますから、意見を返されても心理的に相手は受け入れやすい、とされています。

 ただ、ビジネスシーンではすでに古い手、とも言われています。たしかに僕もそう思います。今は、

 イエス・アンド(yes and)法

 イエス・ソーザット(yes so that)法

 イエス・イフ(yes if)法

 イエス・ハウ(yes how)法

 など、いろいろありますので、興味のある方は調べてみてください。僕も営業の仕事をしていたことがあります。営業職の方は知らないよりかは知っていたほうがやはりいいでしょう。

 ── ただね、ご夫婦・カップル間ではね、「イエス・バット(yes but)法」がまだまだ功を奏するんです。全然、出来てないの、「イエス・バット法」でさえ。 but! but! but! なの。もひとつ but! but! but! なのよ。いきなり否定なんです。いきなり否定から入るんです。繊細な人はそれだけで傷ついちゃうんです。「ちがうでしょ!」「そうじゃねえだろう!」。そりゃ、ケンカも絶えないって。

 あと、「て、言うかぁ」「て、言うかぁ」が口癖のように出る方もいます。あれも but の一種です。いい印象を受けないですよね。 


 ご夫婦間で「イエス・バット法」を使ってみてください。

 たとえば、

「あなたがいいって言ったからあの小説読んだけど、ちっとも面白くなかったわよ!」と奥さんが詰め寄ってこられたとします。

「お前にセンス、ってもんがねえからだろうが!」と言い返したら、いろんな家財道具がひっくり返ることになります。そこはグッ、と我慢して、ご主人が、

「たしかにストーリーはありきたりだったかもしれないね(yes)」と言ったとする。

「そうなのよ」と奥さま。

「途中でオチも読めたしさ(yes)」

「そうそう」

「主人公もイマイチ魅力に乏しかったかもなぁ(yes)」

「そうかもね」

「ただ(but)、おれがいいって思ったのはおもに文章なんだよね。リズミカルで、無駄がなくって、ほんといい文章だった。風景描写なんかも目に見えるようでさ」

「それはそうね。あなたはそういう部分を読むものね」

 ── と、ならないですか? なるって。

 少なくとも、

「あなたがいいって言ったからあの小説読んだけど、ちっとも面白くなかったわよ!」

「文章がいいんだよ! 文章が! お前なんてどうせスジしか読んでねえもんなー!」

 って返すのとは雲泥の差でしょ? 

 良い例として書いた「イエス・バット法」は 共感(yes)を三回も示すスペシャルヴァージョンなので、相当ガンコな奥さまにも効果が期待できます。

 あるご主人に指摘されたことはあります。

「でもね、智(とも)さん、家庭内でそんな〝テクニック〟みたいなものを使うのは、水臭いんじゃないのかい? 言いたいことを言い合うのが家族でしょ?」

「たしかにそうですね。家族の前でくらい気持ちを緩めたいですよね。よくわかります(yes)。でも(but)、慣れるとテクニック、というほどのものでもないようですよ。いきなりあなたに否定されることによって家族の自尊心が低下したり、グッサリと傷つかれたりするくらいなら── よほどいいかもと、個人的には思います。何よりも大切な人たちですものね」

 それで納得される方もいます。納得されない方もいます。でも、「やってみたら簡単でした。家のなかが明るくなっただけじゃなく、私自身がより幸せを感じるようになりました」と言われる方のほうが多かったです。「親しい仲にも心づかいは必要」、というのが僕の考え方です。なにも、言いたいことをすべて飲みこめ、という話ではないのです。多少の〝会話テクニック〟で家族の雰囲気が良くなり、互いの自己肯定感が上がるのなら、それもいいのではないか、という提案です。その〝テクニック〟は、〝思いやり〟という言葉に変わりはしないでしょうか、という話です。

 

「イエス バット法」の談話はこれで終わりにします。手短にもう一つだけ。

「Blue あなたとわたしの本」の中でも何度か触れている(最後に関連作品のリンクも貼っておきます)、

「大切な人の大切なことを大切にしてあげてください」という主張です。

 ご夫婦のお話をうかがっていると、(ご主人にとって、〝この分野〟はとても大切なんだな)、(奥さまは〝この分野〟をとても大切にされているな)とわかります。何度か会っていると、わかる。 

 それが── 当人同士が、わかっていない。

 腹が立つほどわかっていない。何十年 いっしょに暮らしとんねん、と情けなくなったりもします。

 あなたのご主人は〝そこ〟を大切にしてほしいんですよ。あなたの奥さまは〝それ〟を大切なんだってわかってほしいんですよ。 相手にもいっしょに、〝それ〟を大切にしてほしい。大切なんだな、って気づいてほしい── けっこう切実な願いなんです。

 それをわかってもらえないから喧嘩になるんです。怒っているんじゃないんです。悲しいんですよ。わかってもらえないことが── 。「その分野は大切なんだな」って相手に気づいてもらえないことが。なんでなんだ、って泣きたくもなるんです。その人のアイデンティティーにも関わることなんです その分野が。その(デリケートな)部分・領域を、茶化すのもダメです。「この人にとって、これは、すごく大切なことなんだ」と理解し、〝神聖な領域〟として接してあげてください。そして出来ることならば、あなたも本心からその分野に興味を持ってあげてください。大切に扱ってあげてほしいのです。尊重してあげてほしい。その情熱の傾け方を、尊敬してあげてほしいのです。

 たったこの二つだけで、夫婦仲・カップル仲は見違えるほど良くなると僕は信じています。誰だって無下に意見を否定されて、自尊心を傷つけられたくはないのです。誰だって、自分にとって大切な分野・領域を大切にしてほしいのです。大切なその人に、こそ。

「イエス バット法」は練習もしてくださいね。なんだって練習がいるのです。

 

  まとめのようなものを。

 

 ◯ 営業シーンではもう古いとされる「イエス・バット(yes but)法」も、ご夫婦・カップル間ではまだまだ効力を発揮する。

 相手の発言を、「たしかにそうだね(yes)」といったん肯定し、そのあとに、「でもこうも考えられないかな?(but)」と自分の言いたいことを伝える。そうすることによって── いちど理解を示されているから── のちに意見を返されても心理的に受け入れやすく、喧嘩になりにくい。

 さらに付け加えるならば、どうしても告げ知らせたいほどの意見がないときは、「たしかにそうだね(yes)」で終わっておこう。「ほんとそうだね。わかるよ(yes )」と。パートナーが機嫌よくしゃべってくれることほど、嬉しいことはないはず。

 

◯ 大切な人の大切なことを大切にしてあげましょう。まずはその分野、〝神聖な領域〟に気づいてあげましょう。「この人にとって、このことは、とても大切なんだ」と。そして本心から大切に思ってあげよう。このことは彼・彼女にとって、アイデンティティーに関わるほどのことなのだ、と。 茶化したりするのも、御法度。 

 

 

 70億分の1の確率で、いまあなたのとなりに、その人がいてくださっています。掛け替えのないパートナーなのです。あなたはその人を選び、その人はあなたを選んだのです。大切にしてあげてください。どこまでも愛おしく思ってあげてください。その人を肯定してください。その人の自尊心を上げてあげてください。自信をつけさせてあげてください。その人の大切なことを、大切にしてあげてください。

 あなたとあなたの愛する人のあいだに 敬いの気持ちと笑顔が溢れますように。心からそう願っています。

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 関連作品

 関連作品


 文芸誌「Faith」発行者、吉永敦子さんのメッセージを追加しました。

 

 

 

諸君、狂いたまえ!【重要なお知らせ】

Blue あなたとわたしの本 246

 

 

 みなさま、お久しぶりです。お元気ですか? お元気でいらっしゃるといいなぁ。

 あ、ちなみにさ、タイトル。【重要なお知らせ】。これ、ツリだから

 びっくりしたぁ? ヽ(´▽`)/ 🌞

 いや、びっくりするかなぁ、思って。アクセスも伸びるかなぁ、思って。

 ごめんね。そない【重要なお知らせ】はないねん。 ── あ、最後のほうにちょっと、あるかな

 でもツラれる、ってことはさ、「Blue〜」に少しはご興味がある、ってことだからさ、ゆっくりしていってくださいね  (*´v`*) 。

 

 しばらく更新が途絶えてたじゃないですか? 3ヶ月!? そんなに止まってた?! そういうときはさ── 以前もそうだったけど── 小説を書いているんです。小説を書いてると、ほかのものがつづれなくなる── そんな傾向が、あります。自分のホームグラウンドはやっぱり小説かな、と思う。「Blue〜」じゃないと出来ないことっていうのも、あるんですけどね。

 

 これはマジな話なんだけど、しばらくブログを更新しないとさ、コメントを普段くれないような方々がお声をかけてくださるんです。

「お体、大丈夫ですか?」とか、「いつも読んでいます」とか、「最近「Blue〜」を見つけて、それから毎日読んでいます」みたいな熱いのもいただいた。ここ数日アクセスがなんだか伸びてるけど、あなたが一人で読んでくれてたのね、みたいな。── ほんと嬉しいよ。ありがとうございます。ブログ画面にはコメントを表示しないでほしいと希望されてる人も多くて、そういう方にはもちろんそうしています。とくに何も書かれていない場合は、「読ませていただきました。ありがとう」の気持ちをこめて載せていますので、望まない方は、そのむねを書いておいてくださいね。

「いきなりコメントを寄せて、不愉快に感じられたならごめんなさい」みたいなこともよく書かれるんだけど、不愉快なわけないじゃない。とってもありがたいです。「Blue〜」もまた書かなアカンなぁ、って思うよ。やっぱりこういうタイプの人たちが読んでくれてるんだなぁ、とは思うかなぁ。〈感受性が豊かで、傷つきやすく、ひとりが好きで、優しすぎる〉── そんな人たちが、ね。

 あなたに書いているんです。あなたに届けばいいな、って。不特定多数にウケるブログでもないしさ。だから、「Blue あなたとわたしの本」、なんだよね。

 

 話は変わるんだけど、1年ほど前からふしぎなご縁があってさ、「Faith(フェイス)」という文芸冊子に作品を載せてもらっています。長崎県佐世保市在住の吉永敦子さんが創刊された文芸誌。 2020年の長崎新聞にも「Faith」のことが載っているのでリンクを貼っておきますね。


 第2号から僕は書かせてもらっているんだけど、長崎には行ったことがないんです。行きたいなぁ、とずっと憧れてる場所なんだけどね、長崎は。

「Faith」は隔月誌です。第7号までは「Blue〜」の作品を改稿したものを載せています。ブログをずっと読んでくれてる人からしたら、「智(とも)、意外な作をピックアップしたのね」って思うのかなぁ。どうなのかなぁ。 僕が選ぶ「『Blue〜』裏ベスト」、みたいなところはあるかもしれないね。

 第8号からは小説の連載を始めています。これは「Faith」書き下ろしです(しばらくこの作品の準備をしていたわけさ)。タイトルは「八月の悔恨」。1年くらいは連載が続くと思います。リアルタイムの小説連載というのは僕も初めての経験なので、楽しいよ。

「Faith」はね、国立国会図書館・長崎県立図書館(なるたき図書館)・佐世保市立図書館・諫早市立諫早図書館、そして大阪の、浜寺公園駅 カフェ駅舎 、にも置いてあります。なお、佐世保市図書館には、持ち帰り自由分(20〜30冊)もあるそうですので、お近くの方は、お手にとってみてくださいね。

 原稿の募集もしています。発行者の吉永さんは、書いてみたいと思う方を、どなたでも歓迎するそうです。

「はてなブログ」をやられている人の中には、小説やエッセイ・詩を、高いレベルで書かれる方がいらっしゃいます。そういった人物にも、僕は参加してほしいですね。「この人も書かざるを得ないんだな」、と強く感じられる人なんかにもね。 切磋琢磨したいじゃないですか。電子、もいいんだけど、紙の本、ってやっぱりいいからね。

 国立国会図書館にも置いてもらえるって、けっこう嬉しくない?

 お問い合わせ等は、上記リンク先にあります吉永敦子さんのメールアドレスまで、お願いいたします。

 
 吉永さんからのメッセージです。


読みたい方は、新聞記事に載っているアドレスにご連絡いただければ
、こちらから送ります。

送料等はいりません。

とりあえず、7号と8号は、在庫の冊子があり すぐに送れます。

  吉永敦子

 

 

 吉田松陰が残したとされる言葉に、

諸君、狂いたまえ」、がある

 ほんとそう思う。特にいまの狂ったご時世の中では、こっちも狂わないと、心、やられちまうよ。狂うんです。トチ狂うんです。「好き」、に没入するんです。「好き」、の力で生き延びるんです。ネガティブなことに焦点が合わなくなってしまうまで。「好き」、を今こそ見つめればいい。 それが── 正しい狂い方なんじゃないかって思うよ。

「Faith」には「信頼」「信念」「誠意」などの意味があるらしい。

 いいねぇ。 僕もそういったものを大切にしたい。

 さぁ、今日も、「好き」、を生きるぞ。

「諸君、狂いたまえ!」

 

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覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰

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最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる

Blue あなたとわたしの本 245

 
 

「はぐれ者」であるということは利点もあります。
「はぐれ者」は自分ですべて決めます。こういう選択をしたらみなにどう思われるだろうか、と気を揉むこともありません。自分で情報を集め、自分の頭で考え、自分はどうしたいのかまとをしぼります。直感にも耳を傾けます。そう、直感が大事になってきます。
 
 自らの本当の気持ちを知るためには、こんな手法もあるようです。「コイン・トス」の変わった方法。コインの表が出たら A、裏が出たら B、とまず決めます。そして放る。出た表裏おもてうらに注目するのではありません。B ならB の側が出たときに、自分が〝どう感じたか〟に集中するのです。「あぁ、B が出てしまったか」と暗い気持ちが湧いてきたのなら、あなたの本心は A、という選択をしたいのかもしれません。自らの本意がわかりづらいとき、こういった手法を使ってみるのもいいかもしれません。
 
 自分で決断したことなら後悔することはありません。反対に、「みんながそうするみたいだから」、とそこで思考や直感を止めてしまうと自らの本心を見失います。
「はぐれ者」でいいのです。はぐれているからこそ本音に忠実でいられるし、他者の決断も尊重できます。相手の選択をくつがえしてやろうと躍起になることもありません。「この人はそう考えるのだな」とそれだけです。はぐれたその場所から── はぐれたその場所だからこそ── 他者と真に繋がるつながり方もあるようです。思いやる能力も逆に高まります。
 
 何を信じていいのかわかりにくい時勢だからこそ、「はぐれ者」であるあなたとわたしは「はぐれ者」であることに誇りを持ち、そこでつちかった洞察力や慈しむ心を信じたいものです。個、であることを深々と受け入れることによって、個、でありながら全体である、という境地もあるように感じます。
 

「はぐれ者」同士、「はぐれ者」のまま、この時代を共に生きましょう。
 
 
   
   
    最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる。
  The best thinking has been done in solitude. The worst has been done in turmoil.
                         トーマス・エジソン
 
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btomotomo.hatenablog.com


 
 








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