「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.3〈完結〉

Blue あなたとわたしの本 257

 

 

そして翌朝のラストシーンがくる。
清掃するトイレの待つ、渋谷区へ向かう車中の平山のアップ。なぜ平山さんは目に涙をためるのだろうか。泣き笑いのような表情になるのか。感情がせわしなく行き来しているように見えるのだろう。
本当に、自らの生活をみじめだと感じているからだろうか。私はそのようには思えなかった。平山の日常で直前に起こったことといえば、やはり姪のニコや、妹・ケイコとの再会だ。そして、小料理屋のママの元夫・友山との出会い。それにより、平常は「いま・ここ」のもたらす静かな幸福を感じているであろう平山の心は過去や未来を行き来しだす。
過去にあった実家との揉めごと。浮かび上がるいくつかの場面。父親との激しい応酬。受けた心の傷。その父親もいまはホームにいるという。親を100パーセント憎める子どもなどいない。愛憎相半ばするから苦しい。それは涙もにじむだろう。
姪っ子のニコとの再会。二人で隅田川を見た、自転車で桜橋を渡った、いままで経験したことのない感情。「海、行く?」「こんどね」と平山は答える。二人で歌った「こんどはこんど、いまはいま」。そのこんどは、たぶん来ない。平山はそのことも承知している。早朝の高速を走りながらそれは涙もにじむだろう。あのときの「いま」の、なんというまぶしさよ。それは涙もにじむだろう。
未来はどうか。元夫である友山の言動から察すると、今後ママとの関係は今よりも親密になるかもしれない。唇もしぜんと笑みのかたちを作るだろう。だが元夫は、遠からずこの世を去るのだ。つかの間でも心をかさね合わせた友山が。笑んだ唇はまた苦渋のかたちに歪むだろう。
妹のケイコが来た夜、平山はニコに言った、「いつでも遊びに来ていいから」。パトリシア・ハイスミスの小説をニコは借りていった。彼女も本が好きなのかもしれない。ひょっとしたら、また会えるのかもしれない。自転車でいっしょに走れるかもしれない。海だって、行けるのかもしれない。行ってもいいのかもしれない。笑みがまたたわいもなく浮かんでくるだろう。
朝日がのぼる高速道路を走っている、「いま」のもつ純粋な喜び。それは理由のない喜びだ。慣れ親しんだそんな「いま・ここ」へも心は舞い戻るだろう。
過去・未来・いま──そういった、それらがおよぼす、目まぐるしい感情の変転があの表情ではなかったか。
平山は、自分の生活はみじめだ、などという心の段階ではないように思う。かといって悟りきった聖者でもまたないだろう。意識の水面下には自覚し得ない悔しさ、哀しさもたしかにあるのかもしれない。年相応の老いた体を持つ、生身の人間なのだから。 心がゆれうごいて当然なのだ。 泣き笑いじみた表情になるときだってあるのだ。 
平山さんは、何よりも〝自分自身であること〟を選びとった人間なのだと思う。どこの誰がきめたかもわからない「こうであったほうが価値がある」よりも自らにとっての心地よさを選んだのだ。好きなものだけに囲まれて暮らしているのだ。偽りのない自分を生きている。これ以上の豊かさがあるだろうか。
「この男の行き着く先は孤独死だ」という声もあるようだが、覚悟しているのではないか。そうであるからこそ、「いま・ここ」へ逃れた、とも言えるのかもしれない。瞬間・瞬間には、過去や未来はないから。過去や未来がないということは怒りや恐怖がない、ということだ。
人から距離を置き、「いま・ここ」に安住するとき、代わりに歩み寄ってくるものがある。それが木々であり、陽の光であり、木漏れ日だ。それらは一瞬一瞬にだけ存在する、つねに新鮮な美だ。
生きてそれらと対峙している「いま・ここ」が切なく、愛おしい。心のなかで手を合わせたくなる。出どころがわからない感謝の想いも湧いてくる。
世間が言う、「こうでなければならない」から逸脱した人間だけが感じられる安堵がある。喜びがある。哀しみもある。強さがある。
平山さんの穏やかな表情のうしろには泣き笑いが幾重にも畳みこまれている。彼は最後にそういった感情を我われに見せてくれた。
私は思う。日々出会う 微笑んでいる人の顔のうしろにも、そういった哀しみや喜び、痛みが折り畳まれていることに気づける自分でありたいと。見える目をもちたいものだと、改めて思う。

語りたいことはまだまだあるのだが、このあたりでまとめてみたい。
映画のキャッチコピーでもある「こんなふうに 生きていけたなら」とはつまりはどういう意味か。
これは、社会常識や他人の目ではなく、〝自分にとっての幸福〟に素直に生きていけたらどんなにいいだろう、という意味合いだろう。
例えば、 神社の境内でいつも昼食をとっているオフィスレディ 。制服からすると受付嬢かもしれない。だがそうであるならば、彼女は明らかに向いていないだろう。つねに生気のない顔をしている。職場でも浮いているのではないか。皆とうまくやっているのであれば 神社で一人で食べたりはしない。 彼女はたぶん、仕事中は、気質とはちがう役柄を演じているのだ。だから極度に疲れる。自分が自分であることを自分に許せば、人は一瞬にして幸せになれるのに。 隣のベンチに座る平山さんも、そのことを知っている。
タイトルの「パーフェクト デイズ」の意味はどうか。これも同じだ。自分の本性のままに日々を過ごせば、そこに「 パーフェクトデイズ」が現れる。 一瞬一瞬の「いま・ここ」がきらめく。ささやかな事象が喜びに変わる。色彩が鮮やかになり、立体感を増す。 世界との友好関係が生まれる。
もちろんそうは言っても生きているかぎり心はゆれる、ゆれつづける。ラストシーンの平山さんのように。それもまた、だからこそ、命あるものはこんなにも愛おしい。ゆれてもいいのだ。誰もがみなゆれる。ものやわらかな表情のうしろに泣き笑いをおさめ込んで、今日をみな、懸命に生きている。

田中 泯さんが演じた踊るホームレスの私なりの解釈や、平山さんが買う缶コーヒーはなぜいつもカフェオレなのか?  作中に出てきた小説・音楽についての考察など──触れたいことはまだたくさんあるのだが、収まりがつかなくなるので割愛する。
私はこの映画を見ている2時間、絶えず感情がゆすぶられ、様ざまなことを考えた。もちろん心も打たれた。想像力を掻き立てられる素晴らしい作品だった。鑑賞して本当によかったと思う。

長い記事を書き終わってみれば、当ブログでいつも記していることと、主題も内容もたいしてちがっていないことにも気づいた。 映画評論めいた今回の文章も、『 Blue あなたとわたしの本』のナンバーシリーズに組みこんだ所以である。

 

 

 思っていたよりも長文になってしまいました。 最後までお読みくださり、ありがとうございます。「PERFECT DAYS」を観られたかたがいらっしゃいましたら、 ブックマークコメントでもコメント欄でもけっこうですので、自由にご感想をお書きください。「PERFECT DAYS」、本当に大好きな映画となりました。 
平山さんの部屋に遊びにいって、まずはじっくりと本棚の背表紙を見てみたいですよ。    

  智(とも)

 

 

 

 

 

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「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.2

Blue あなたとわたしの本 256

 

 

その後に起こる大きな出来事といえば、やはりこれだ。平山が恋心をいだいているであろうママのいる小料理屋(開店の少しまえの時間だろう)に行ったとき、見知らぬ男性とママが抱き合っているのをドアのすき間から見てしまう。平山は逃げるように走り去る。河川敷で缶ビールをあおる。ママと抱き合っていた男性がそこへ来るのだ。追いかけてきたものらしい。その男は元夫だった。難病におかされていて、余命いくばくもないであろうことが知れる。「あいつをよろしくお願いします」と男は言う。お願いします、と繰りかえす。
この場面は、リアリティがないように思えた人もいたかもしれない。だが 死を覚悟したとき、人はこれまでの人生で出会った大切な人たちに、もういちど会いに行きたくなるときがある。あやまりたくなるときが。ありがとうを伝えたくなるときが。その人たちが幸せでいてほしいと願うときが。心が透き通ってしまうときが、あるのだ。元夫・友山は、そういう心境だったのではないか。 平山が逃げ去ったあと、「あの人は平山さんと言って──」という会話も当然ママとなされたはずだ。その口調、表情で、元妻の気持ちも友山は察したはず。この世的な自我がなかば浄化されているであろう友山が、気がつけば平山を追いかけていた、──不思議ではないように思う。
そして影踏みのシーンがくる。
友山は、「影ってかさねると濃くなるんですかね」と不思議なことを言う。「わからないことだらけだな。けっきょくわからないまま終わっちゃうんだなぁ」と。
「やってみましょうか」と平山は答える。
街灯のまえに立ち、二人はじっさいに影と影とをかさねる。「変わらないかなぁ」と友山はさびしげにつぶやく。平山は、「濃くなってないですか。なってるんじゃないですか」と返す。「濃くなんなきゃおかしいですよ。なんにも変わんないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と平山は言い張るのだ。
私はこのシーンで、あのセリフがフラッシュバックした。「 この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」。平山はこういった諦観をもった男だ。だが、何かの拍子に、つながっていない世界と世界がかさなったとき、少しぐらい色も濃くならなければ、木漏れ日のように心もゆらがなければ──なんにも変わらないなんて──それではあまりにも寂しすぎるじゃないか、そんな平山の痛切な声を、この場面で聞いた気がする。
平山さんは決して人間嫌いでも、自閉した人物でもない。閉じた人間は駅と直結した地下街の居酒屋などで夕食をとらない。改札が見え、すぐうしろを人が慌ただしく行き交うような場所では。店主が毎回 話しかけてくるような古本屋にも行かない。現像された写真を受け取るためとはいえ、カメラ屋にも通わない。店を出るとき主人とかわす「ああ」「うん」という挨拶ともつかぬやりとりのなんとすてきなことか。あるいは公衆トイレに残された謎のメモ。誰とも知れない人物とのつかの間交流。「ありがとう」と記されたその紙を、平山さんは大事そうにポケットにしまった。
影と影がかさなったなら──ヒビ割れた心と心が合わさったなら──平山さんはその傷口から奇跡的に差しこむあたたかな光をみいだしたい人なのだ。 影踏みのシーンに、私はそんなことを感じた。

あと、これは本筋とはやや離れた話題かもしれないが、この影踏みのシーンは〝降りてきた〟アイディアではないかと個人的には思った。 つまり、ヴィム・ ヴェンダース監督や、共同脚本の高崎卓馬氏が〝頭で〟考えたシーンではないのではないか、と。どちらかの右脳へ直接舞い降りてきた場面だったのではないかと感じたのだ。作品を作るとき、そういった幸運なことがまれに起こる。思考よりも先にそのシーンが展開される、その光景が〝見えて〟しまう。 何だろうこれは? とインスピレーションを受け取った人間はあとからその意味するところを考える。この情景はなんの隠喩なのだろうか、と。見当がつかないとそのアイディアを採用するのをやめてしまうケースもでてくる。意味がわからないし、ちょっと唐突すぎるかもしれないな、といった理由で。
──そのシーンを削ってはいけないのだ。たとえ作者にも意図するところを把握できなくとも。〝作品そのものが〟求めている情景なら。「なるほどこのシーンはだから必要だったのだな」と作者本人が数年後、数十年後に気づき、理解することさえままある。フィクション創造の面白みではないだろうか。 創作とは、〝何者かとの共同作業〟なのだ。
この影踏みのシーンに、作品自体が働きかけたインパルスを私は感じた。この場面があることによって映画が膨らみを増したと思う。豊かさを増した。
当初からあったアイディアなのか〝降りてきた〟ものなのか、もちろん私の知るところではない。なんにせよ、平山と友山が影と影とをかさねるシーン、二人の無垢なやりとり、そしてそれにつづく影踏みのシーンが、私はとても好きだ。

 

  後日、vol.3〈完結〉を投稿します。 

 

 

 

 

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「PERFECT DAYS」を観てきた。 頭から離れなくなる映画だった。 vol.1

Blue あなたとわたしの本 255

 

 

映画「PERFECT DAYS」をもう観られただろうか。あなたがどういった感想を抱くのか、とても興味がある。もしまだ観られていなかったら──ネタバレもこれから書いていくので──鑑賞後にこの文章を読んでもらってもいいのかもしれない。 真っ白な状態で映画を観てみたいとお考えなら。

役所広司演じる平山さんの最後のあのシーン。 車中、正面からの大写し。その変化する表情の演技をどう解釈するかによって、観た人の持っている価値観・人生観が浮き彫りになるようだ。 
人によっては、「 平山は自らの生活をやはりみじめだと思っていた。だからラストで涙するのだ」と捉えるらしい。何人かからそういった感想を聞いた。私はそのようには受け取れなかった。
もちろん映画や小説の解釈は人それぞれだし正解はない(年齢や境遇によっても変わるだろう。この映画はとくにそうだと思う)。製作陣や作者にはっきりした意図があったとしてもそれが唯一の答えではない。どう受け取ってもいいのだ。だが、「平山さんが目に涙をためた理由はそうではない」と言い返したくなる自分がいた。平山さんがまるで実在の人物であるかのように。自分の近しい人でもあるかのように。 

この映画の主人公である平山は公衆トイレの清掃員をしている。古びたアパートでの一人暮らしだ。清掃は手を抜かず、黙々と仕事をこなす。道具まで自分でこしらえている。夕方にはアパートに帰ってくる。銭湯へ行き、地下街にある居酒屋で食事をとる。寝落ちするまで布団で古本を読む。そしてまた同じルーティンの朝を迎えるのだ。
観る人によっては、この主人公にイライラするようだ。上昇志向もなく、現実逃避をしている人物に見えるらしい。私の観た上映回でも何人かが途中で席を立った。そのまま戻ってこなかった。映画館ではあまり目にしたことのない光景だった。
「平山は家庭も持たず、親の面倒もみていない。人生のすべてから逃げつづけた成れの果てなのだ」といった意味のコメントも読んだ。
親と向き合っていない、という部分は私もうなずく。だが、それにもきっと事情があるのだ。平山にとっても心の傷となっているのだろう。この映画は説明されない部分が多い。回想シーンなども用いられない。伏線の回収もなければ起承転結もない。ゆえに実人生と似ている。平山から目が離せなくなる。観賞後も頭から離れなくなる。

夜、木造アパートの前。妹であるケイコと再会するシーン。ケイコは運転手付きの高級車でくる。「こんなとこ住んでるのね」と彼女は言う。「ほんとにトイレ掃除してんの?」とも。彼女にとってトイレ掃除など誰かがやってくれるものだったのかもしれない。平山の実家は裕福だったのだろう。 大会社の跡取りだったのかもしれない。あるいは平山も一流企業に勤めていた時期があったのかもしれない。 たぶん彼は、魅力を感じなかったのだ。自分はそういうタイプの人間ではない、と自覚したのだろう。 社会的地位の〝高い低い〟より、 何よりも〝自分自身〟でありたかったのではないか。〝自分にとっての幸福とは何か〟を考えてしまう資質を持っていたのだろう。
「それは自分の道ではありません」とはっきり言うのは勇気がいることでもある。普通はそれができないのだ。親や親族、世間の目を気にして。自分自身の本性をこそ、深く見つめるべきなのに。 
若い同僚・タカシが急に仕事を辞め、タカシの受け持ちだったトイレまで清掃してまわった夜、 ガラケーをにぎった平山は会社にこう言い放つ。「毎日は無理だからね」。そう、無理なものは無理だと言える人なのだということがこのシーンでしめされる。夕方早くにはアパートに戻り、規則正しいルーティンを守りたいのだな、とも汲み取れる。残業手当などよりそちらのほうがきっと大切なのだ。平山の過去には、何か大きな出来事があった。たぶん父親との確執が。妹・ケイコの話にあった、ホームにいる父親は「もう昔みたいじゃないから」というセリフからもうかがえる。「俺には無理だからね」、 平山は、過去にもきっと父親に断言したのだ。
自分はそういったことがつとまる人間ではありません、と見極めること。それを受け入れること。許すこと。 〝なぜかしら惹かれる〟ことに正直になってみる。それが生きる、という行為への誠実さにもつながる。だが、そういった真摯さは他人には理解されにくいものだ。わがままに見えたり、変人に見えたり、ときには憎まれることもあるかもしれない。
平山さんの数少ないセリフのなかにこんなものがあった。「 この世界には、本当はたくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある」
平山と妹の世界も「 つながっていない世界」だ。妹・ケイコは実家の裕福な環境に違和感をおぼえないタイプなのだろう。 平山の姪っ子であるニコは居心地の悪さを感じているようだ。 母親とも衝突し、伯父である平山のアパートへ転がりこむ。平山も、昔の自分とニコがかさなって見えたかもしれない。血もつながっている。愛おしく思わないわけがない。だが、いつまでも自分と居てはいけないという分別も当然ある。彼は妹に電話をかけ、迎えに来させる。妹のスマートフォンの番号も知らないだろうから、平山は実家にかけたはずだ。それで妹が出たとしたら、やはり妹が家業を継いだものと受け取れる。平山はこのとき自らの携帯電話を使わなかった。銭湯の公衆電話からかけていた。こちらの履歴を残す気はない。「つながっているように見えてもつながっていない世界」。その断絶は、深い。
平山はアパートの前で妹を抱擁する。ケイコもまた涙ぐむ。もう会うことはないであろうことを共に悟っているかのような場面だ。

 

  書き出したら、思っていたよりも文字数が必要なようです。vol.2、として近日中につづきを投稿します。

 

 

 

 

 

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